【幻冬舎】
『てるてるあした』

加納朋子著 



 このサイトを開設して十年ほどのあいだ、私は絶えずいろいろな小説を読み、書評と称するものをアップしてきたが、そのたびにふと思うのは、私の書いた書評は、はたして対象にした小説をどこまで深く掘り下げられているだろうか、ということだ。「読んだ本は意地でも褒める」というサイトの方針そのものは、あくまで小説を読むさいの個人的姿勢であって、まったく違った方針、まったく違った思いで小説を読む人はいくらでもいる。極端なことを言えば、人の数だけ小説の読まれ方は異なっているし、そこから感じるものや得るものも異なってくる、ということになる。

 そこには、おそらく唯一の正解などというものはないし、正しい小説の読み方というものもありえない。そして、私がずっと不思議に思っているのは、同じ言葉で書かれた小説であるにもかかわらず、それを読む人によって感想が千差万別になってしまう、という事実である。言葉というものは、わけのわからないものに対してこちら側の秩序を規定するためのものであるはずだ。にもかかわらず、小説を読んで得るものはけっして同じではない。考えてみれば、これほど不思議なことはないと思うのだが、はたしてこの書評をお読みの皆様は、どのようにお考えだろうか。

「あんたは何でも、はっきり説明されなけりゃ気が済まない性分みたいだね。だけどね、世の中きちんと言葉にできることばっかりじゃないんだよ。――(中略)――それを無理矢理言葉にしてみたところで、物事の本質とずれてしまうのが関の山さ」

 本書『てるてるあした』という作品を、きちんとした言葉でとらえるのは、さながら空に浮かぶ雲を虫取り網で捕まえようとするような行為に等しい。だが、それでもなお本書について書くことがあるとすれば、それはある物事に対するとらえかたの多様性、ということになるだろうか。私たちはともすると、一時的な思い込みで物事を一面的に判断してしまいがちな生き物であるが、本来誰にでも備わっているはずの想像力は、そんな私たちの主観を切り離し、他人のことをまるで自分のことのように思いやることができる力である。そして、その力を後押ししてくれるのは、その物事についてより多くのことを「知る」という姿勢である。

 たとえば、本書の語り手である雨宮照代の、佐々良の街に対する最初の印象はけっして良いものではない。「観光客に来てもらいたいけど、あんまり見向きされなくて、物欲しそうに指をくわえているような街」というのが、彼女のいだいた第一印象である。そしてこの街の印象は、じつはそのまま彼女自身の心境の反映でもある。なにせ、彼女の両親は多額の借金をかかえて逃亡、ひとり娘である彼女は遠い親戚だという鈴木久代の家を頼るためにやってきた、という悲惨な経緯があるのだ。しかも、せっかく頑張って勉強して合格したはずの高校にも、入学金が払えずに行けなくなってしまい、照代は一気に拠るべき家族も、行くべき場所もなく放り出されたも同然という状況である。

 ごく普通の十代の少女、それも、本来ならば高校生活を満喫しているはずの女の子にしてみれば、照代の置かれた状況は相当に尋常ではないものであり、そんな状況において彼女が自分自身のことで切羽詰ってしまい、一面的なものの見方になってしまっているのは、無理のないことでもある。そして、この一人称の語り手を担う照代のある種の偏見は、物語を展開させるうえで重要な役割を担っている。

 著者の加納朋子といえば、たとえば『ななつのこ』をはじめとする、いわゆる「日常の謎」をあつかうミステリー作家として有名な方だ。そして本書においてもご多分に漏れず、さまざまな不思議な出来事に遭遇することになる。まるでタイミングを見計らったかのように送られてくる、差出人不明の携帯メール、居候先の久代の家に現われる少女の幽霊、その幽霊が引き起こしているらしい怪奇現象や妙な夢――だが、本書が他の作品と大きく異なっているのは、そうした不思議な出来事について、その謎を解明していくという方向ではなく、不思議なことは不思議なこととして受け入れていこうという雰囲気である。そしてその雰囲気を生み出す要素として、佐々良の街の住人たちがいる。

 万事においておっとりしすぎて、それゆえにどこか頼りなく危なっかしいサヤさんに、逆に万事において大雑把で、どこか派手で華があり、たくましさに溢れているエリカさん、老婆なのに妙に小さくて可愛らしいという表現がぴったりくる珠ちゃんに、予知能力があると風潮している高校生の依子など、いっぷう変わった登場人物たちによって織り成されている、佐々良という街――当初はなんともおめでたい人たちばかりだと思っていた照代の気持ちが、その街で生活し、いろいろなことに気づくことでどのように変わっていくのかを描いていくのが本書であるが、なかでも彼女の身元を引き取ってくれた鈴木久代の存在は重要だ。

 元学校教師である久代は、教師時代から鬼婆だの閻魔大王だのと呼ばれていた怖い存在で、それは老齢に達した今も変わらない。悲惨な状況に置かれ、周囲の人たちにおおいに同情して欲しいという照代の甘えをいっさい許さず、常に厳しい態度で用事を言いつけたり、働き口を探して金を稼ぐよう示唆する彼女に、照代は不平不満を募らせはするが、逆にそうして照代を追い立てていくことで、彼女に嘆いたりふてくされたりする暇をあたえず、前に向かって行動させていると言うこともできる。そして、当初は自分のことだけで手一杯だった照代が、身のまわりで起こるさまざまな不思議に対して、「なぜ」という気持ちをもったとき、そもそも母はなぜ久代に自分を預けることにしたのか、という疑問がはじめて浮かんでくることになる。それは、それまで自身という主観から一面的なものの見方しかできていなかった彼女が、自分以外の誰かの視点から物事をあらためてとらえなおすというひとつの転換点であり、そこに読者は、彼女の精神的な成長を見出すことができる。

 照代にとって母親の慶子は生まれたときから「母親」であるが、慶子自身には「母親」となる以前の過去がある。そのあたり前のことを「知る」という過程が、本書のなかには書かれている。そして、そのことに気づかせてくれたのは、他ならぬ佐々良という街が引き起こした不思議である。そこには、説明のつくこともあれば、本当に不思議なこととしか言いようのないものもある。だが真に重要なのは、その不思議の真相を究明することではなく、それらが自分にとって何を意味しているのか、という点である。そしてそのとき、私たち読者ははじめて、佐々良という街に特別な思いを寄せることができるようになる。

 そして本書を読み終えて、私はこんなふうに思う。この物語の中心にあるのは、佐々良という街そのものなのだと。そしてこの街は、まるで鏡のようにそこに住む人たちの望みや思いを受け止め、応えていくという不思議な空間でもある。はたしてあなたは、この街を舞台にした物語のなかに、どのようなものを見出すことになるのだろうか。(2009.03.02)

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