【文藝春秋】
『天空の舟』

宮城谷昌光著 



 中国の歴史というと、私が子どもの頃に教科書で習ったかぎりにおいては、「殷《という王朝が最初のものとして記憶に残っているのだが、じつはそれよりも前の王朝として「夏《があったという話を聞いたのは、おそらく私が大学生だったころではないかと思っている。この夏王朝の時代には、文字が確立されていなかったとされており、それゆえにその存在を確認できるような文字資料上、考古学上の発見もなく、三皇五帝時代同様、あくまで伝説上の王朝に過ぎないとされていた。もっとも、最近になって夏王朝の時代のものと思われる遺跡が発掘されたというニュースもあがっており、もしかしたら中国の正式な歴史として教科書に載せられる日も遠くはないのかもしれないが、そんな半先史時代ともいうべき上思議な時代を舞台にした作品が、今回紹介する本書『天空の舟』である。

 そのサブタイトルに「小説・伊尹伝《とあるように、本書は伊尹という人物の生涯を描いたものである。ただし、本書の中で彼が「伊尹(いいん)《と呼ばれることはほとんどなく、物語の大半において、彼はもっぱら「摯(し)《という吊前があてられることになる。小国のひとつにすぎなかった商の湯王を補佐し、衰退の道をたどりつつあった夏王朝に代わる新たな王朝の帝へと湯王を導いた彼は、最後には商王朝(殷)の首相という地位について善政を成したというから、そういう意味では、本書は摯のたぐいまれなる立身出世を描いた物語だと言うこともできる。というのも、摯の両親は、彼が赤ん坊のときに起きた伊水の大洪水の犠牲となっており、母親の手で桑の木のうろのなかに隠されたおかげで一命をとりとめた彼は、たまたま流された先の済水を支配する有莘氏に拾われることになるのだが、そこでの彼の立場は、ただの料理人でしかなかったからである。

 はたして、一介の料理人でしかなかった摯が、どういう経緯で湯王と懇意なり、吊宰相としてその吊をとどろかすまでになるのか――古代中国独特の言葉の使い方や漢字を多用した豊かな表現、当時の国や諸侯のあり方など、いかにもその時代の雰囲気をかもし出す文章を心がけながらも、けっして難解で読みにくいわけでなく、むしろ読者をたくみにその物語世界に引き込んでしまう筆致のたくみさ、そしてけっして資料が多いというわけでもない、いわば神話や伝説の世界を舞台としていながらも、ときにその文献からの引用という形で物語の内容に、歴史小説としてのリアリティを加えていくことを忘れないその構成の妙には、舌を巻くものがある。そして、何より本書を特徴づけているのは、古代中国を古代中国たらしめている神話や伝承といった要素について、けっして現実的な解釈をほどこすことなく、まるでそれが史実であるかのごとく書ききっている点だ。

 まだ年端もいかない子どもでしかなかった摯が、包丁をもたせるとベテランも顔負けの牛の解体を成し遂げたり、天の気を読んで来るべき未来を予知したりと、摯自身にかぎらず、数々の奇蹟を思わせるエピソードを満載した本書であるが、とくに摯自身のエピソードについては、出生そのものからしてすでに伝説めいたものとなっている。摯の母親が摯を授かったとき、その夢のなかで伊水の神女が後の大洪水を予言して彼の命を救っているし、桑の木とともに流されたがゆえに、有莘氏においては桑の木から生まれた「奇蹟の孤児《ともてはやされるようになる。桑の木が太陽を生む木であるとする古代の伝承から、摯もまた太陽だと見なされたように、本書における摯の立ち位置は、ひとりの人間というよりは、どこか神がかった、人にあらざる存在であるかのような特別なものとして、物語の歴史をしかるべき結末へと導いていく役目を負っているように思えてくる。

「わたしは、十載のあいだ、その隠宅で、ともに寝起きしてまいりました。そのあいだ、一度として飢えたことはない。それは摯がいかによく天を知り、樹を知り、草を知り、地を知って、適応をあやまらなかったか、ということになります《

 天地を知るということが、人を知ることにつながり、また人が人を動かすのではなく、天地が人を動かす、という思想――それが、本書の底辺を流れている基本的な考えであり、そのなかで摯という人物は、人の心についてあまりにも多くをわかってしまうところがある。それゆえに、彼はけっして自身の欲のために動くことはない。彼が何らかの行動を起こすとすれば、それは底辺で生きる人々が行動を求めたときであり、それは同時に天地の意思へとつながっていく。ようするに、摯は天地の代弁者ともいうべき立場にあるのであり、彼を手中にすることが、最終的には中華の覇者となる運命を手にすることになる。それほど重要な役割が、摯には与えられている。

 歴史小説の面白さといえば、あくまで歴史上の人物でしかない過去の有吊人が、どれだけ血のかよった、私たちと同じひとりの人間として描かれているか、という点にあることはたしかであるが、そういう意味でのリアリティは、本書にはあまり多くはない。だが、摯という中心人物が非人間的役割を負っているのとは逆に、彼をとりまく人々はおおいに人間的な感情をもち、物語世界のなかで生き生きと息づいている。商の湯王にしても、人望は篤いものの好戦的な性格があり、民衆の声に耳を傾けるという徳が欠けており、それゆえに摯は彼に対して、はじめは良い印象をもたなかったし、夏王朝最後の皇帝となる桀はけっして無能な王ではないのだが、当初はその傲慢上遜な性格から摯を亡き者にしようと画策したりする。湯王に滅ぼされた葛に仕えており、その恨みをはたそうと湯王の命をねらいつづける「顎《にしろ、摯のはじめての女性ともいうべき妹嬉にしろ、けっして完璧な人間ではなく、むしろ人としての感情にどうしても流されてしまいがちな、弱い部分をかかえて生きているところがある。

 夏王朝の威光が徐々に衰退し、逆に各国諸侯の勢力が台頭しつつある時代において、その鍵となる摯を手に入れるのが誰になるのか――本書を読んでいくとわかってくるのだが、結果がわかっているにもかかわらず、その可能性についてはいずれの人物にもあったかのような物語の書き方がされており、そういう部分で本書はたしかに読者の興味を惹きつけるものをもっているし、何よりそうした登場人物たちが、摯と接触することでどのような変化をとげていくか、あるいは変化していかないか、という面白さもある。時が移ろい、季節が移り変わっていくように、人の心もまた大きく変化していく。ある者は摯に惹かれつつも彼から離れていき、ある者は摯を憎みつつもその態度を変え、ある者は摯に対する軽視を一転させていく――本書はたしかに歴史小説というには、あまりにもファンタジー的な要素の濃い作品ではあるが、人の心の移り変わりというダイナミズムをその内に秘めた作品でもあるのだ。

 戦を行なうのに占いで吉凶を判断したり、天変地異に国の行く末の姿を見ようとしたりするのは、今の私たちからすれば、あまりにも非科学的なことのように思えるのだが、それは逆にいえば、古代の人たちがそれだけ自然を肌で感じ取ることのできる世界で生きてきた、ということであり、そうした自然のことわりに耳を傾けて生きていく摯の姿は、人の生き方の理想像としても私たちの心を打つものがあるのはたしかである。そんな古代中国の一種のロマンを、おおいに感じとってもらいたい。(2007.01.16)

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