【新潮社】
『天人五衰』
豊饒の海(四)

三島由紀夫著 



 そして、物語はあらゆるものを巻き込んで、海へと還っていく。あるいは辿りつく、と言ったほうがいいだろうか。ゆるやかな満ち引きを繰り返し、しかしけっして一定ではありえない海――だが、辿りついたその海が、万物の生命の源として無限の可能性に溢れる豊かな海であるとは限らない。もしかしたらそこは、見渡すかぎり乾いた大地が広がるだけで、草はおろか水一滴すらない不毛な砂漠の海であるかもしれないのだ。
 そうではないと、いったい誰に断言できるだろうか。夜空に瞬く美しい星さえも、その正体は水素爆発を繰り返すだけのエネルギーの塊でしかないこの宇宙の、あまりにもちっぽけな私たち人間が認識する、きわめて偏った世界において、そもそも絶対などというものが存在しうるのだろうか。

「転生と夢」というテーマで書かれてきた、三島由紀夫の「豊饒の海」四部作――その第四巻であり、すべての完結編でもある本書『天人五衰』において、ようやくそのシリーズ名にちなんだ「海」へとその視点が移される。伊豆半島にある清水港――そこに清顕の第三の生まれ変わりである少年、安永透がいた。帝国信号の通信所ではたらく透の役目は、入出港してくる船舶を見張ること。まるで、自分がこの世界の外側にいて、そこから万物の生成流転を眺めるかのように海を、空を、星を見つづけ、一瞬ごとにその形を変えていく情景の変遷に目を向けることで、存在の認識以上の領域をまのあたりにすることができると信じているこの自意識の怪物と、偶然にも出会うことになった本多繁邦は、透の体に刻まれた、転生の証である三つの黒子を目にすることになる。

 物事の流れにけっして手を出すことなく、あくまで観察者でありつづけようとする、という一点で、透は清顕や勲、ジン・ジャンと似ているというよりは、むしろ本多に似ていると言える。もちろん、老いた本多は最初に透と出会ったときから、その類似性に気がついている。清顕の死からはじまった転生の奇跡――何の因果か、その転生の行く先を観察する役割を与えられてしまった本多は、何より自分がその事実を知っている、という点において、やはり自意識のとりことなっているからである。かつて、裁判官として人を裁き、また弁護士として人を救ってきた、それまでの本多という人物の構成要素であった理性と理論が完全に崩壊してしまっている以上、本多に残されているのはもはや、自分が転生の奇跡とともにある、という自意識だけなのだ。

 本多のこうした動き――そもそも清顕が書き残した夢日記を転生と結びつけようとする動きは、第二巻の『奔馬』の頃から少しずつ現われていたことでもあった。第三巻『暁の寺』においては、大乗仏教を支える根本思想のひとつである、阿頼耶識を中心にして展開していく唯識論に傾倒し、輪廻転生を自分の中で無理やり意味づけしようとしたことからもわかるように、本多の転生への観念は確実に妄執めいたものとなり、本書において、ついに彼は、転生の奇跡そのものを自分の手で完結させようと決意するにいたる。

 一方の透のほうはどうだろうか。第三巻『暁の寺』において、ジン・ジャンが本当に清顕の転生した姿なのか、という疑問は、本書においてある意味、決定的な形をとることになる。前世の記憶、三つの黒子の形、清顕の夢日記――そのどれをもってしても、もはや転生の決定的な証拠とはなりえないという事実の中で、ただひとつだけ明らかなのは、透が純粋培養されたがゆえの悪だということだけである。この世のあらゆるものが意思によって制御できる、自分の感情や無意識でさえコントロールできると信じて疑わない、ダイヤモンドのように硬く凍りついた自意識で自分を覆った透が、その自意識こそ他者を傷つけることができる鋭利なナイフであることに気づいたとき、物語は急速に来るべき終焉へと転がり落ちていく。そしてその先にあるのは崩壊、無秩序、混沌、そして虚無だ。

 だが、そもそもそのような終焉への流れは、どこから始まったのだろうか。本多が透を養子にし、俗人としての教育をほどこそうと決意したときから? 本多が輪廻転生の奇跡にとりつかれてから? それとも、本多が清顕と知り合ってから、すべては動きはじめていたのだろうか。本多は語る。

 人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか生れないね。知っていてなお美しいなどということは許されない。同じ無知と迷蒙なら、それを隠すのに何ものも持たない精神と、それを隠すのに輝かしい肉を以てする肉体とでは、勝負にならない。

 清顕は純粋な愛に、勲は純粋な使命に、ジン・ジャンは純粋な肉体に縛られ、それゆえに若くして死んだ。いや、死ななければならなかった。なぜなら、純粋でありつづけることと無知であることとは、等価であるから。彼らに共通するのは、自分が転生の奇跡の対象であるという事実を知らない、ということだ。もし、本多が追い求めてきた輪廻転生が――その肉体が絶頂を迎える二十歳でいったん滅び、新たな純粋として生を受けるという美の極致が、無知であるがゆえのものであるとするなら、その転生の対象である阿頼耶識は、けっして転生の事実を、そしてこの世に純粋などといったものは存在しない、という真実を知ってはならないのだ。知った瞬間、彼らに訪れるのは、次の誕生の前段階としての死のみでなければならない。だが、それでもなお純粋に生きつづけようとするなら、自らの醜さを狂気によって裏返してしまった絹江のように、純粋な狂気の中に生きるか、あるいはあらゆるものから目を閉ざし、世界とのかかわりをいっさい絶ってしまうしかない。

 本書のあとがきによると、このシリーズ「豊饒の海」という名は、月の海に名づけられたラテン名の邦訳からとってきたものだという。けっして何物をも生み出すことのない死と不毛の海に「豊饒」という名を冠した著者三島由紀夫が、このシリーズを完結させた直後に割腹自殺をとげたのは、あまりにも有名なエピソードである。著者は、いったいこのシリーズに何を託そうとしたのだろうか。

 物語の世界は、まるでブラックホールに吸いこまれていくかのように、速やかに崩壊し消滅し、最後には原点へと回帰していく。そもそものはじまりであった月修寺――かつて清顕が愛した聡子がいる場所へと。三度の転生をまのあたりにし、その崩壊をも見届けなければならなかった八十一歳の本多が、その最後の最後に何を見ることになるのか……。あなたははたして、豊饒の海のはるかかなたに広がる、形而上の恐るべき虚無を見ることができるだろうか。(2001.01.12)

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