【角川書店】
『テンペスト』

池上永一著 



 その昔、沖縄本島を中心に琉球という名の王国があった。今では日本の県のひとつでしかない小さな島が、かつてはひとつの国として独自の文化と伝統をはぐくんできた、という事実は、日本そのものが島国であるのと同じように、四方を海で囲まれているという地理的特徴を考えるとあってもおかしくはないと思える。だが同時に、航海技術にすぐれ、諸外国との交流も盛んだったという点において、琉球は海の交通の要所でもあったということであり、中国や日本、あるいは欧米列島などの大国に混じったときに、それらの国と同じひとつの国としての機能を保ちつづけるというのは、なかなか難しいものがあるのではないか、とも思ってしまう。

 今回紹介する本書『テンペスト』は、そんな琉球を舞台とした作品であり、『バガージマヌパナス』や『風車祭』といったファンタジックな沖縄世界を描いて作家デビューをはたした著者としては、言わば原点回帰に到った作品でもあるが、本書の場合、そこにさらに歴史という時間の流れが加わることになる。言うならば、一大スペクタクル歴史絵巻という形で壮大な物語を綴った大作、それが本書であるが、そんな本書のことを語るためには、ふたつの中心の存在をはっきりさせておく必要がある。ひとつは、琉球という国そのもの。そしてもうひとつは真鶴、あるいは寧温という名前で呼ばれるひとりの女性の存在である。

 まず琉球という国から見てみると、本書のなかにおけるこの国は、いくつもの問題を抱え、また何度も国難というべき苦境に立たされる。冊封体制の中心にいる清と、事実上琉球を傀儡化してしまっている薩摩藩、しいては江戸幕府というふたつの国の狭間で二重の重圧を受けながらも、逆にその摩擦を利用してどちらの国とも微妙な距離を置き、いわば両国の緩衝地帯として国を維持してきた琉球王国は、常に外に目を向け、時代の流れをつかんでゆるやかにその変化を受け入れていくことで生き残ってきた小さな国だ。だが、清は欧米列強の侵略を受けて弱体化し、冊封体制そのものが崩れつつある。そうなれば、それまで保たれてきた国と国とのバランスもまた釣り合いがとれなくなり、あっという間に他国に飲み込まれてしまいかねない。にもかかわらず、五百年という国の歴史の長さが、王朝内部における旧態依然とした体質を蔓延させ、柔軟な変化がしにくい状況にある。

 武器や軍隊をもつことなく、圧倒的な美と教養をもって諸外国と互角に渡り歩いてきた琉球――だが、かつての王国の勢いは、本書のなかではすでに失われている。歴史のなかで、確実に黄昏時を迎えている国とは対照的に、真鶴というキャラクターは圧倒的な存在感を放ち、また日が昇るような壮絶な勢いをともなっている。三歳で文字を覚え、幼くして「荘子」や「孟子」、「詩経」といった難解な本を楽々と諳んじてみせた彼女は、その後もスポンジが水を吸い込むようにあらゆる知識を吸収してき、とくに語学にかんしては欧米の国々の言葉やラテン語さえ難なく操るほどの素質を開花させていく。琉歌や踊りといった芸能にも秀で、師匠にも恵まれ、知識をたんなる知識ではなく人のために役立てるためのものとして昇華していく術を心得るなど、およそ人間としてはありえないくらいの多大な才知をもって生まれた真鶴は、女でありながら性を偽り、「孫寧温」という宦官として科試を突破し、首里城の役人としてその辣腕を振るうことになる。

 ただでさえ史上最年少の科試合格者、それも宦官という物珍しさもくわわって、周囲の興味ややっかみ、反感を買いやすいうえに、彼女は国のために常に先を見据え、派閥といったしがらみにとらわれることもなく、またあまりに頭が切れすぎるがゆえに、その言動や判断のひとつひとつが破格のものが多く、それまであった王宮の慣例や、古い体質との摩擦や衝突が絶えない。さらにいえば、女であることを隠して暮らすというハンディーも負っている。本書は、そんな四面楚歌ともいうべき王宮のなかで、ほんのわずかな協力者の力を借りて、真鶴がどれほど大きな逆境を跳ね返し、また琉球王国を救うべく奮闘するかを描いた作品であり、それは彼女の役人としての胸のすくような活躍ぶりを楽しむということでもあるのだが、本書が特別なのは、真鶴/寧温というキャラクターに、国の救世主、変革者という位置づけだけでなく、国の破壊者、終焉をもたらす者という位置づけも与えている、という点である。

 そうした相反する要素は、じつは本書の冒頭あたりですでに示されている。目覚めれば国が乱れるという龍が落ちてきたときに誕生する、龍の化身としての力をもつというエピソードと、彼女の一族がじつはかつての王族であったというエピソードは、それらの要素に付随するはずの物語の結末を混乱させるものだ。かつての王族であるということであるなら、現王朝を打倒して正しい血筋を主張し、王宮に返り咲くという展開を容易に想像するのだが、現実の物語のなかで、彼女はそうした自身の要素を武器として振るうようなことはしない。そして国を乱す要素という意味では、大胆な財政改革や王宮内に巣食っていたアヘン密売の摘発など、多くの敵をつくりながらも大規模な手術を敢行していく、という点では当たってはいるが、それは彼女にとって現王朝を存続させるための最良の策だからこそ振るった大鉈であり、また清や薩摩藩、あるいはイギリスやアメリカといった外圧に対しては、巧みな外交術で武力衝突なしで敵を退けるという活躍を見せている。

 はたして真鶴は国を救う者なのか、あるいは国を滅亡に導く者なのか――それは彼女がきわめて理知的な男として生きながら、特別な男性に恋に落ち、また女性として否応なく成熟していく体の変化といった、おもに生理的、情感的な部分で常に反発しあっているという状況とよく似ている。じつのところ、真鶴というキャラクターの最大の特長というのは、その溢れんばかりの才知でも、持って生まれた宿命の重さでもなく、男でありながら女、女でありながら男であるという二重性、そこから生まれるアンビバレントな要素の強さである。そしてそんな彼女の存在に影響されるかのように、彼女の周囲にいる男たちは、かならず一度はその理知的な一面を乱し、感情の赴くままに行動を起こし、結果としてそれが自身の首を絞めることになる。そしてそれが、本書のけっして短くはない物語のなかで、一種のカンフル剤としてその展開を加速させる役割をはたすことになる。

 琉球王朝の制度や文化、とくに巫女や神職といった神々と関係する独自の風習などの専門知識をこれでもかとちりばめ、圧倒的なリアルさを現出させる琉球王国の存在は、それだけでも読みごたえ充分なものがあるが、それ以上にそこに生きる人々のエネルギーが圧倒的なのは、著者の作品において一貫した特長でもある。本書は琉球という国の物語である。だが同時に、本書は真鶴の物語であり、寧温の物語でもあり、またそこに登場する多くの人々の物語でもある。歴史は理路整然とした事実の積み重ねであり、理知の範疇にあるものだ。だが、そこに生きる人々の思いは、理性だけで説明できるものではない。琉球という歴史と、真鶴という情、またそれぞれのなかで相反するさまざまな要素――そうした混沌のなかから、これまでにない物語が生み出されていく。

 何度も弱みを握られ、何度も政敵に追い落とされても、不死鳥のごとく甦ってきては、国難を救う真鶴の活躍に注目するのはもちろんであるが、彼女のなかで渦巻いているアンビバレントな要素、そして琉球王国がかかえているアンビバレントな要素、男でありながら女であり、他国の庇護にありながら、なお一国としての矜持を保ちつづけるという、まさに「答えのないところに答えを見出す」存在を、物語という形で描ききった本書が、はたしてその国の最後をどのような方法で締めくくり、決着させていこうとするのか、ぜひとも見届けてもらいたい。(2008.10.15)

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