【東京創元社】
『人魚は空に還る』

三木笙子著 



 非常に残念なことに、私にはおよそすぐれた芸術や壮大な自然といったものが持ち合わせている「美しさ」というものについて、それを素直に綺麗だと感じとる神経が相当鈍いところがある。むろん、どういう事象に対して美しいと感じるのかは人それぞれだと言ってしまえばそれまでであるのだが、たとえば高尚な絵画やとんでもない高値のついた宝石といったものをまのあたりにしても、それはたんにそこに、そのままある物という印象を超えるものではなく、極端な言い方をすれば、そこらへんにありふれている事物とさほど差があるとも思えない。だが同時に、目に見えるわけではないそうした「美しさ」を愛でる感覚がたしかに存在するだろうということは、たとえば自分が殺風景な地下室に何年も閉じ込められるような状況を想像すれば容易に見えてくることでもある。

 この世界は美しいものに溢れている。たとえそれが、どれほどありふれたものであったとしても、それらのものがすべてこの世から消えてしまったらと考えるのは、かなりぞっとするものがある。そんなふうに考えたときに、人間が理屈なしに感じる「美しさ」という要素は、私たちが意識するしないに関係なく、私たちが生きていくための力になんらかの作用をおよぼしていると言うことができる。ただ、私のようにそうした感覚の鈍感な者は、どうしてもその「美しさ」の価値を、別の物差しで推し量ろうとしてしまう。そして、その単位として安易に使われてしまうのが「お金」だったりする。高い金額のつけられたものであればあるほど、その対象のもつ「美しさ」に価値がある、という判断――それは、いっけんするとこのうえなくわかりやすい価値判断ではあるけれど、それがどれほど俗で、本来の「美しさ」とはかけ離れたものであるかがわからないほど、私も野暮ではないつもりである。

 明治時代の帝都東京を舞台とする本書『人魚は空に還る』は、表題作を含む五つの作品を収めた連作短編集であり、また提示された謎に対して、探偵役の登場人物がその真相に迫る、という意味で純粋にミステリーとして分類される作品でもある。だが、それ以上に本書の大きな特長として、その謎の鍵となるものが、物事の美というものに深く結びついているという点が挙げられる。たとえば『真珠生成』では、とある宝石装身具商で扱われていた極上の真珠「プリンセスグレイス」が盗まれるという事件が物語の発端となっているし、『点灯人』で行方不明になった生徒は、彫刻創作にかんして素晴らしい技術の持ち主でもあった、というふうである。

 だが、何より「美しさ」を象徴する人物として登場するのが、超絶美形の絵師である有村礼だ。

 美麗にして爽、高雅にして艶、ありったけの語彙を駆使してもなお言葉は足りず、「有村礼の描く女性に似ている」が東京市中すべての女性にとって最上級の誉め言葉とまで言われている。何の誇張もない。事実である。

(『真珠生成』より)

 町を歩けばすれ違った女性がほぼ例外なく目を向け、店に入れば誰が彼の応対をするかで壮絶な争いが女性店員のなかで起きるという、罪作りこのうえない容貌の礼であるが、絵師としての腕も天才的であり、雑誌の表紙にしろ絵葉書にしろ、彼の美人画を載せればかならず売れるという人気ぶりである。そんな彼と、その友人である至楽社の雑誌記者、里見高広のふたりが物語の中心人物となり、事件の謎を追う、というのがこのシリーズのパターンとなっているのだが、このふたりの青年の、真相解明という役割において、探偵役があくまで高広のほうであって、いっけん完璧超人たる礼のほうが、じつはワトソン役となっているところが興味深い。

 帝都随一とさえ謳われる稀代の絵師と、たったふたりしかいない小さな出版社の、ほぼなんでも屋と化している記者という立場において、高広は常に礼には頭があがらない状態にある。ふだんは気難し屋であり、描いた絵の代金も法外な額を要求する礼が、高広の勤める至楽社にだけは適正価格で表紙を描いたりする理由のひとつとして、彼が無類のシャーロック・ホームズ好きであり、その小説が載っているイギリスの雑誌を翻訳できるスキルを高広がもっている、という理由がある。だが、たんにそれだけの理由であれば、高広でなくても勤まる役柄ではあるのだが、そこから発展して、礼は帝都で起こるさまざまな難事件について、高広がホームズばりの推理を披露してくれることを望んでいるのだ。

 かつていくつかの事件を解決した高広を、礼はホームズのようではないかと評し、自分は聞き役に徹するワトソンであると言ったことがある。
 が、腰の低いホームズと高飛車なワトソンでは世界中から非難と投石の嵐だ。

(『真珠生成』より)

 探偵役を担いながらも、ホームズのように探偵であることを生業としていない高広にとって、ミステリー的な要素はトラブルの的であり、けっして歓迎すべきことではない。むろん雑誌記者である以上、むしろそうしたミステリーのネタを探すことが本分と言えなくもないのだが、おそらく彼をして事件に足を踏み込ませる一番の要因としてあるのは、「美しさ」を愛でる心にある。たとえば表題作の『人魚は空に還る』は、見世物小屋の人魚が物語のメインとなるのだが、彼女が本物なのか偽者なのかといった点は、高広にとったさほど重要なことではなく、むしろその人魚を不老長寿の薬として買い取ろうとする女性の、ある種の「醜さ」――人を幸せな気持ちにするはずの「美しさ」とは対極に位置する要素が、彼の推理の原動力となっているところがある。『怪盗ロータス』に到っては、絵に描いたような成金商人から絵画をいただくと予告する怪盗が登場するが、彼はこと美術品に関しては専門家すら唸らせるほどの目利きという設定である。

 いずれの作品にも、「美しさ」をもつものと、それをおもに金儲けのために利用しようとする「醜さ」との対比という構造があり、それがミステリーとしての鍵にもなっている。そして何より、高広は礼の描く絵の「美しさ」に惚れ込んでいる者のひとりだ。礼の絵画が描き出す美が炎であるとすれば、高広の推理は言わばその炎を守る守人といったところだろうか。だからこそ私たちは、このふたりのコンビが織り成す「美しさ」に感嘆せずにはいられない。以後のシリーズでの活躍が非常に楽しみになる作品である。(2013.10.06)

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