【講談社】
『定年ゴジラ』

重松清著 



 親父のことを、ふと思い出した。

 終戦と同時に生まれ、戦後の混乱とともに育ち、一文無しで家を出て働きはじめ、同じ会社の女性と結婚、小さな一戸建てをかまえ、一家の主としてふたりの子供を育て、高度経済成長のときには、二交替、三交替までして働いてきた私の親父は、あと数年で会社を定年退職することになる。

 ごくごく平凡で、特記すべきところもない、どこにでもありそうな、あるサラリーマンの家庭生活――私も含めた今の若者にとっては、なんてつまらない、と思うような人生かもしれない。だが、そんな親父とけっきょく似たような道を歩みつつある今の自分なら、ほんの少しだけ理解することができるのではないか、と思う。いつもと同じように朝を迎え、いつもと同じように会社で働き、いつもと同じように寝床につく――こんなあたり前のことを何十年も続けていくのが、どんなに大変なことなのか、ということを。

 本書『定年ゴジラ』に登場する山崎隆幸は、長年勤めた銀行を定年退職し、第二の人生を歩みはじめたごくごく平凡な元サラリーマンである。ところが、これまで会社一筋で頑張ってきた山崎さん、定年になったからといって、とくにやりたい事があるわけでもない。おまけに、山崎さんが家をかまえるくぬぎ台ニュータウンには、暇をつぶせるような娯楽施設が何ひとつないときた。仕方がないので、ウォーキングを毎日の日課にしていた山崎さんだったが、ある日、同じようにウォーキングをしている定年組の人たちの親しくなって……。

 大手広告代理店で辣腕をふるっていたという町内会長、マッハ通運の切り込み隊長として、西日本を渡り歩いてきた野村さん、元・武蔵野電鉄の開発課長で、くぬぎ台ニュータウンの仕掛人でもある藤田さん――それぞれが、それぞれの仕事に並々ならぬ誇りをもち、仕事第一で働いてきた世代、そして定年となったとたん、それまで家庭を顧みなかったツケの大きさに戸惑い、戸惑いつつも第二の人生を前向きに生きていこうとする世代。ありきたりな、と言ってしまえばあまりにありきたりな、今の時代の定年組の日常風景を描いただけの本書――だが、そこには読む人をホッとさせてくれるような、人間のぬくもりにあふれている。

 「変わらないものなんてない」――そう、うそぶく人がいる。でも、本当にそうなのだろうか。本当に、何もかもが変わってしまうのだろうか。
 自分の家の前だけしか雪かきをしない二人の息子に釈然とない思いを感じていた野村さんに、向かいの一人暮しのおばあさんのところまで雪かきをしましょうと持ちかけた山崎さんは、野村さんの家に目をやりながら、思う。

 車のないガレージの隅に、錆び付いて埃をかぶった自転車が二台並んで置いてあった。山崎さんは、いま、決めた。兄貴も弟も、自転車の乗り方を野村さんに教わったのだ。絶対にそうだ。野村さんに後ろを支えてもらい、励まされたり慰められたり叱られたりしながら、ふらふらと危なっかしいハンドルさばきで、ペダルを小さな足で踏んでいったのだ。そのことだけ息子たちが忘れずにいてくれたら、いい。

 ずっと昔、中学の頃の同級生とともにはじめて東京見物に来た、今はなき山崎さんの母親。還暦を迎えてその同級生と再会した山崎さんは、そのときの母親のことを聞かされるうちに、それまで頑なだった自分の心が静かに発する声を聞く。

 ボクガ結婚スル人ニモ会ッテホシカツタデス、オ母チヤンガツクルカボチヤノ煮物ノ味付ケヲ教ヘテホシカツタデス、娘ガ二人デキマシタ、抱イテヤツテホシカツタデス、イマハ孫モヰマス、オ母チヤンノ曾孫デス、ボクハモウ定年ニナリマシタ、最後マデ銀行デ、最後マデ東京デ、勤メ上ゲマシタ、オ母チヤン、モツトモツト親孝行シタカツタデス、オ母チヤン、オ母チヤン、オ母チヤン……。

 楽しいときには笑い、悲しいときには泣き、嬉しいことがあれば喜び、嫌なことがあれば落ち込む――人間なら誰しもが持っているはずの、何かを感じる心。いつの時代になっても永遠に不滅であるものが、本書に中には確かに息づいている。(1999.06.21)

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