【PHP研究所】
『花のお江戸のタクシードライバー』

しゃけのぼる著 

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 タクシーもバスも電車も飛行機も、お客を乗せて運ぶ、という機能については同じものであるが、電車や飛行機のように大規模な設備が不要で、かつバスのように路線や最終便といった空間的・時間的制約のない点が、タクシーとその他の交通手段との違いであり、またタクシーの大きな強みでもある。ようするに、あくまで建前上は「いつでも」「どこでも」利用できるという融通の良さこそが、タクシーの特長であるのだが、たとえば人ではなくモノを運ぶという点で、タクシーと似たような性質を持つ宅配業界が、それまであった小口運送業界そのものを大きく揺るがせる存在にまでのし上がったのに対し、同じように小口の「人」を運ぶタクシー業界が、旧態依然としているように思えるのは、やはり人とモノとの違いなのだろうか。

 ドライバーは賃金が安いと思い、利用者は運賃が高いと映る。タクシー料金に対する高い安いって感覚は、詰まるところ人件費を挟んだせめぎ合いなのだ。

 本書『花のお江戸のタクシードライバー』は、深刻な平成不況のあおりを受けて突然リストラされてしまった著者が、それでも家族を養うために一念発起、タクシードライバーとして再起をはかるために奮闘努力していくという、男としてのプライドと、それを支える家族愛をあますところなく伝える、聞くも涙、語るも涙の物語……というのは、じつはウソ。一部上場の機械メーカーに勤めていたものの、度重なるサービス残業、サービス出勤にいいかげん飽き飽きしてしまった著者が、「シャカリキに働かなくても何とかなる商売」という、じつに安易な目的でタクシードライバーになってしまったという、一部の人たちからは「ふざけんな!」という怒号が飛んできそうなデラシネ人間のタクシードライバー体験記、というのが真相だ。ていうか、そうでなければ「やってみました!」などというサブタイトルを頭につけたり、自分のことを「オイラ」などと言ったりはしないだろう(ちなみに、著者は独身である)。

 この「オイラ」という一人称にもびっくり仰天ものなのだが、じつは本書のタイトルの長さも相当なものだ。なにしろ本書の正式タイトルが『やってみました! 花のお江戸のタクシードライバー 東大出てから15年、オイラの乗務奮闘記』である。いくらなんでも長すぎだろう。もっとも『平成タクシー事情』では、どこかおカタイ感じだし、『ザ・タクシー』だと、まるで映画のタイトルみたいでそぐわないのだが。

 それにしてもこの「しゃけのぼる」という著者、一見おちゃらけたキャラクターを演じてはいるが、たとえば「クモスケ」と呼ばれる悪徳ドライバーの存在を憂い、マナーの悪い客に怒り、かと思うと、客の不幸な身の上話を聞いてポンとお金を渡してしまったり、またこれからのタクシー業界の将来について、環境保全の観点からかなり具体的な考えを出したりと、じつは根はすごく真面目な人間ではないか、と思わずにはいられない。「オイラ」という一人称を使ったり、くだけた言葉遣いをしていたりしてつい惑わされてしまうが、文章表現ひとつとってみても、かなりしっかりしていてわかりやすい。誰が読んでもわかるように、あくまで平易な文章で、業界のことを書いていく、というのは、じつはなかなか簡単にできることではなく、だからこそ、そうした文章の隠れた几帳面さに、どことなく著者の性格がうかがえてしまったりする。そういう意味でも、本書は単なる業界裏話というよりも、じっさいにタクシードライバーになろうと考えている人が読んでも役に立ちそうな情報を満載した業界本、と位置づけたほうが妥当なような気がする。

 私は出版業界に勤めるサラリーマンであるが、たとえば書店に目を向けたときに、プロの書店員が少なくなった、という話をよく耳にする。これは、POSシステムの導入によって、本の売上が容易に単品管理できるようになった、というのが大きな要因のひとつだと言われている。極端な話、アルバイトでも補充注文や売れ筋の把握が可能になった、ということだが、本書から垣間見えるタクシー業界というのは、他の業界に比べてまだまだ個人の能力、いわゆる「職人芸」が生きている世界であることを実感する。
 たとえば、地理の情報という点では、人間の記憶はカーナビの能力には遠くおよばない。だが、本書を読むかぎりにおいて、タクシーにカーナビが標準装備されないのは、おそらくタクシーの利用者が、タクシードライバーの「職人芸」にまだまだ期待しているせいなのだろう。だからこそ、「演歌が好き」で「ラーメンのうまい店を知っている」タクシードライバー像が今も生きていたりする、タクシー業界のさまざまな逸話は、どこか人間臭さがあって面白い。著者の言うとおり、もしかしたらタクシー業界は、プロ野球の世界にも通じるものがあるのかもしれない。

 その日その日の売上が勝負のタクシードライバー、はたして今日はサンコロ、ヨンコロ(その日の営業収入が三万円台、四万円台であること)で撃沈してしまうのか、あるいはマンシュウ(一万円を超える長距離客の料金のこと)連発のホームラン攻勢で華々しい勝利をおさめるのか? 不景気だ、業界再編だ、リストラだと、なにかとイヤなことばかり目に映る昨今、いつも出たとこ勝負のノホホンとした著者のようなタクシードライバーの存在は、また別の意味で働く人たちに勇気を与えてくれるに違いない。

 なんてね(笑)。(2002.10.07)

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