【新潮社】
『牛への道』

宮沢章夫著 



 十字路における自動車の交通を制御する信号機――この信号機のシグナルはふつうは時差式と呼ばれるもので、時間によってシグナルの色が変わる仕組みとなっているが、なかには歩行者が任意のタイミングで信号機のシグナルを切り替えるタイプのものが存在する。横断歩道の脇に歩行者専用のボタンがあって、そのボタンを押すことで車道の信号機が赤になり、歩行者が安全に道路を横断できるというものである。

 ある日、私がその押ボタン式の信号のある横断歩道を渡ろうとしたときのことだ。歩行者専用のボタンを押そうとすると、そのボタンの上に「自爆スイッチ」と書かれているのに気がついた。

 あきらかに手書きと思われる油性ペンで書かれた「自爆スイッチ」という文字――本来は信号機のシグナルを変えるためのボタンに上書きされたこの文字に、私は不意を突かれてしまった。わけがわからなかったからだ。いや、自爆スイッチを知らないというわけではない。これはアレだ、現物は見たことはないけど、最終手段として用意されている「自爆」のための装置のことだ。それはわかる。だが、なぜよりによって押ボタン式の信号のボタンに「自爆スイッチ」なのかがわからない。いったい、何が自爆するというのだろう。信号機か? 自動車か? それともボタンを押した歩行者か? いやだなあ、俺、まだ死にたくないんだけど。

 もちろん、これは誰かのイタズラなのだろう。ボタンを押したところで、自爆などというイベントが起こるはずがない。だが、そうするとこのイタズラはまったくの無意味ということになる。おそらくこのイタズラを思いついた奴も、それほど深遠な意味をこめたわけじゃないのだろう。仮にこのイタズラに稀有壮大な意味が隠されているとしたら、それはそれで怖い。だが、少なくとも私のなかにある「常識」がほんの一瞬ねじ曲がり、なんとも不可解な気分を味わったことはたしかだ。本書『牛への道』は、ようするにそんな本なのだ。

 たとえば、「文章の書き方」といった本に掲載された例文に面白みを感じないのは、それが「正しい日本語」だからだろう。きちんと整えられたものは、文章に限らずどこか退屈だ。少しだけ歪んでいるほうが魅力的に感じる。

 本書に掲載されている掌篇ともいうべきエッセイには、いずれも私たちの当たり前としている常識の枠が、何らかの理由でふと揺らいだときに見せる私たちの反応をのぞき見するような面白さがある。当然のことながら、あらかじめ何が起こるかわかっていれば、私たちはあたりまえの日常をあたりまえのものとして粛々と過ごしていくことができる。予想もしないような角度から、不意打ちのように襲いかかる突発的な出来事――それはときに人を周章狼狽させ、ときに怒りをもたらし、ときにその起こったことをなんとか理屈づけしようと思考を空回りさせる。その姿は、けっして格好良くも、クールでもない。ただただ滑稽なのだ。

 理性、理論、秩序といったものは、私たち人間を定義づける要素のひとつである。将来を想像し、来たるべき未来を予測し、現在という時間を未来への備えのために使うことができる生き物、それが人間であり、この能力ゆえに人間はこの世界でこのうえない発展を遂げてきたと言ってもいい。だが、私たちはその能力をあまりに過大評価しすぎているところがないだろうか。今の時代、なんとなくぼんやりと生きていても、とりあえずは命の危険を感じるようなことはない。そんな平和な世のなかにおいて、予想された日々が予想されたとおりに続いていくというのは、退屈であるどころか苦痛でさえある。

 なんと贅沢なことか。

 だが、べつにどこかの冒険活劇のような非日常を求めているわけではない。新聞に目をとおすとき、ヒーターのタンクに灯油を入れるとき、パソコンを動かしているとき、どこかの塀の張り紙を見るとき、なぜか「どこか変だ」と思うような、ほんのささいな何かに遭遇する。本書の面白さを説明するなら、その「ほんのささいな」日常のズレ――それこそ、多くの人たちが見逃してしまうような小さなズレを、ことのほか大袈裟にとりあげてしまうことの滑稽さである。

 言うまでもないことだが、そうした行為はとことん無意味だ。だって本書にとりあげられている事柄は、べつに気がつかなかったところでまったく困らないたぐいのことでしかない。考えてみてほしい、シンクロナイズドスイミングの選手がつけている鼻栓がいただけなかろうと、パソコンのアプリケーションソフトの名前が妙にファンシーだろうと、大人がバナナを手にしている姿がどこか間が抜けていようと、私たちに何の関係があろうか。だが、そうした無意味なことを、無意味なこととわかっていながら求めてしまうのも確かである。

 たとえば、私はときどき妙に蛍光灯からぶらさがっている紐を相手にシャドーボクシングをしたくなることがある。なんでそんなことをしたくなるのか、じつはよくわからない。でもしたくなってしまうのだ。「シュッ、シュッ」とわざわざ口で効果音まで入れて。はたから見れば、なんと間抜けな姿だろう。だが、そうした無駄なことこそが――そしてそんな無駄なことをする人間というものを笑い飛ばすことこそが、私たちがもっとも人間らしくなれているときではないか、とも思うのだ。

 ところで、この書評の枕で書いた「自爆スイッチ」のことだが、ボタンを押しても何かが爆発するようなことはなく、ふつうに歩行者用の信号が青になっただけだった。だが、問題なのはそんなことではなく、押すべき形状は「ボタン」なのに、どうして「スイッチ」なんて言葉を使っちゃったんだろう、ということである。(2012.05.14)

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