【筑摩書房】
『タナトスの子供たち』

中島梓著 



 この世には男と女の二種類しか存在しない、というのは昔からよく言われていることではありますが、では私を含めた世の男たちにとって、女とはいったいどういう存在なのか、ということを考えたとき、そこには多かれ少なかれ、性の対象――たとえば、胸の大きさだとか、スタイルの良さだとか、可愛い顔をしているとか――という視点が介在していることに気づくことになります。修学旅行やキャンプなど、少年どおしが集まる場で、必ずと言っていいほど話題になるのは「どんなタイプの女の子が好きなのか」という理想論であり、これが大人になると、「自分がこれまで体験した性交渉自慢」へと発展することになるのですが、こうした話題に共通するのは、どれも一見すると女性の話をしているようでいながら、じつは「自分」のことしか語っていない、ということです。そこでとりあげられる女性というのは、スタイルや容貌、あるいはどれだけ「名器」であるか、とかいった一種の記号であり、女性の側にも当然あるはずの個性は完全に無視されてしまっています。

 ひとつだけことわっておきますが、私は別にフェミニストを気取っているわけではありませんし、女性を商品と見なしている男たちを弾劾しようというわけでもありません。それは、あまりにも長い間つづいてきた男性優位の社会で男として生まれた以上、ある程度は避けられない影響であり、もしこのような考えに染まっている者たちを罰するのであれば、世の成人男性は誰ひとりとしてその裁きから逃れることはできないでしょう。ただ、ここで私が言いたいのは、世の男性が、自分は男である、ということ、そして男として生まれてきたという、ただそれだけの理由でさまざまな恩恵を授かっている、ということを、どれだけ自覚しているのか、という問いかけなのです。

 本書『タナトスの子供たち』で展開されているのは、「ヤオイ」論です。「ヤオイ」という言葉の語源については、「ヤマなしオチなしイミなし」という有名なのをはじめ、いくつかの説があるようですが、その内容は主として、「男どおしの恋愛、SEX関係」をテーマにした小説やマンガのことを指しています。仕事の関係上、私はこの手のジャンルの本が毎週必ず何冊かは刊行されているのを知っていますし、書店に行けば、「ヤオイ」コーナーなる棚ができてしまうほど一ジャンルとして確立されつつあることも知っていますが、そもそもの「ヤオイ」の確立者だと言われている著者は、そこから「なぜ」という問いを発することからはじめている。なぜ、ヤオイというジャンルが、これほどまでに女性を惹きつけてしまうのか――著者はそのことに対して自分なりの切り口で考察し、そこから現代の日本が抱え込んでしまった「戦後民主主義」の構造の限界、頻発する少年犯罪、摂食障害、多重人格、そしてH.I.Vも含めた、現代特有の問題にまで光を当て、そのうえで私たちがこれからどのように生きるべきなのか、ということを述べていきます。けっして難しい用語を使っているわけでも、私の書評のように(爆)まがりくねった文章や表現を用いているわけでもない――誰にでもわかる言葉で簡単に、しかも明瞭にひとつの問題について書くことができる著者の表現力、物事を掘り下げていく能力の高さ、そして何より文章から溢れてくるバイタリティーの強さに圧倒されてしまいます。

 世の男たちがしばしば、ゲームというヴァーチャルな世界にハマってしまうように、世の女たちがハマってしまう「ヤオイ」の世界――私が唯一、その手のジャンルのもので読んだことのあるものとして、栗本薫の『真夜中の天使』というのがありますが、本書で語られている「ヤオイ」世界というのは、より非現実的な仮想世界としてとらえられているようです。女性がほとんど出てこない、限りなく美しく、そして互いによく似た少年や青年どおしが愛と性をむさぼりあうという世界について、少しでも現実的な側面から考えれば、おかしな点、疑問点が噴出し、破綻をきたすであろうことは明白なわけですが、そうした点をすべて無視し、アナルにペニスを突っ込むという、おそらく苦痛しかもたらさないはずの行為を快楽に転換してしまう「ヤオイ」のファンタジーについて、そしてその限りなく歪んだ、しかし限りなく安全な世界に入りこんでしまった、著者も含めた少女たちについて、あらめて客観的な視点に立って考えてみたときに見えてくるもの――じつはそれは、「ヤオイ」にハマっている少女たちだけでなく、私たち男にとっても、というより社会そのものが抱えた問題と密接につながっていることに気づくことになります。

 さよう――
 私たち男にとっては理解のできない、また理解しようともしない、ともすればその存在すら知らない「ヤオイ」の世界に隠された、これまでさんざん「個人」であろうとすることを抑圧されつづけ、性の対象としてのみ生きることを強制されてきた少女たちの声なき声に、もっと耳を傾ける時期に来ているのです。そして問いかけなくてはならない、「あなたはなぜヤオうのか」と。

 だが、なぜヤオうのか、ともし問うてみるだけの勇気とそして真摯さを持っていたとしたら、たちどころにその人は、おそろしくたくさんのことばがそのあとにひきつづいてくるのをきくことになります。――(中略)――もしひきださないとすればそれは質問者の頭がまわり車に毒されて、本当に一切まわり車の用意した経路以外では動けなくなっているからです。

 ここでいう「まわり車」とは、ひたすら右肩あがりとなることを要求する経済のことであり、ひたすら勝ちつづけることを要求する社会構造のことでもあります。そして、本書における「なぜヤオイなのか」という問いを「なぜ人を殺すのか」という問いへと変換したとき、同時にその質問者は「なぜヤオイであってはいけないのか」、そして「なぜ人を殺してはいけないのか」という、「おそろしくたくさんのことば」へとつながっていくことに気づかざるを得ない。「ヤオイ」おたくでもある著者が、「ヤオイ」の持つファンタジーに完全に没することなく、常にそんな「ヤオイ」好きな自分に疑問を持ちつづけ、本書を書き上げるにいたった、という事実は、まさにものすごい僥倖であったのかもしれません。いや、あるいは誰よりも深く「ヤオイ」に没入したからこそ疑問を持ちつづけることができたのかもしれませんが、その真偽はともかくとして、「ヤオイ」という、マスコミにとってはけっしてセンセーショナルなものではない、しかし今のこの閉塞した現状を考えるうえで、あるいはもっとも根本的な問題をはらんでいるのかもしれない一現象に目を向けた本書の意義は、非常に大きい。

 本書のなかで著者がたどりついたひとつの結論は、あるいはとうてい受け入れがたいものであるかもしれません。それまで、あまりにあたり前すぎて、誰も問題として取り上げることさえしようとしなかった問題――ですが、本書を読めば、私たち人間にとってのあたり前の原理に、これほど多くの人たちが異議を唱えつつある、というその事実に慄然とすることになるでしょう。その危機感をもったとき、あるいは私を含めた世の男たちが「ヤオイ」を理解することに、大きな意義が生まれてくることになるのではないでしょうか。(2001.04.28)

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