【角川書店】
『民子』

浅田次郎原作 



民子表紙  私はあまり映画やテレビ番組を観るほうではないし、今でこそ新しい可能性のひとつとして考えるようになったものの、そもそも小説の映画化や、逆に映画のノベライズ化とかいう、いわゆるメディアミックスはあまり好きではない人間だった。小説なら小説で、映画なら映画でしかつくれない物語というのがあるはずであり、一度その表現形式を選んだ以上、他の表現形式を寄せつけないような作品をこそ生み出すべきだという考えがあったからであるが、それでもなお、人間の目と耳で訴えてくる映像技術というものの凄さ、その可能性については、小説という表現形式をこよなく愛する私にもけっして無視できない影響力があることを、認めないわけにはいかない。何と言っても、たった一枚の原稿用紙に書かれた小さな物語が、多くの人を涙させる感動の映像へと昇華することさえありえるのだから。

 西暦2000年をもって創立10周年を迎えることになったマルハペットフーズが、その記念としてつくったCMをご存知だろうか。テレビ東京系列のペット番組内でしか放送されなかったようなので、あるいは一部の人しか実物を観なかったかもしれないが(ちなみに、ムービーシアターがこちらで観ることができます)、「猫好きな小説家に原作を依頼し、映画風なCMをつくりたい」というスタッフたちの熱い思いが実現させた「民子」という名のそのCMは、その原作を浅田次郎が書いた三部構成のもので、すべてあわせてもたった1分半のCMでありながら、一度観た人の心に深い印象を植えつける、物語性のある作品として仕上がっていた。本書『民子』は、そんなCMを一冊の本にまとめた写真集――フォト・ストーリーブックである。

「恋人たちの顔をみな忘れても、民子ひとりが忘れられない」――売れない小説家のかたわらで、彼の書く小説を読んでくれたたったひとりの読者は、民子という名の飼い猫だった。長くつづいたふたりの関係は、しかし彼の小説がようやく売れはじめた頃、民子が急に行方知れずになってしまうことで途切れてしまう。だが、長篇小説の仕上げにかかっていたある寒い日、民子は再び姿を現わした。彼にひと言の祝福を告げるために――どこか古臭く、それでいてどこか懐かしい雰囲気を残す下町を舞台に、人間と猫との心の交流を、そして猫という生き物の気高い姿をあますとこなく伝えたそのCMの雰囲気を、本書はけっして壊すことのないよう、載せられた写真はすべてセピア色、そしてその場面場面に差し挟まれる、浅田次郎の原稿の文章。そのCMを観た人にとっては、CMとは微妙に異なる生の原稿の雰囲気を、そしてCMを観たことのない人であっても、本書が伝えてくる物語の深さを味わうことができるようになっている。もちろん、猫好きにとってはたまらない内容であることは言うまでもないだろう。

 本書には「民子」のほかに、浅田次郎がCM用に書いたものの、採用されることのなかった二作品についても紹介されているのだが、それとは別に、著者が特別に書き下ろしたと思えるエッセイふうの掌篇も載せられている。そこには、自分は人間ではなく猫であり、同居中の九匹の猫も私のことを猫だと見なしている、といった内容が書かれているのだが、こうして「民子」のストーリーを書いていてふと思ったのは、もし私が民子を猫だと説明しなくても、まったく違和感のない作品として仕上がっている、ということである。もちろん、CMのほうでは民子が猫であることはすぐにわかってしまうことであるが、「日本中の愛猫家が涙した」という帯の文句がもし本当だとすれば、それは、CMを作成したスタッフのこだわりはもちろんのことながら、原作を書いた浅田次郎の、猫を人間と対等な、あたりまえの登場人物と見なしていたからこそではないだろうか。そしてそれは、猫をこよなく愛する人たちにとっては、程度の差こそあれ、誰もが持っている感情でもあるのだ。

 CMのなかでも、また原作においても、すべては「民子が忘れられない」という言葉からはじまる。これまでに名作と呼ばれたCMは数多くあったし、そのうちのいくつかは私も目にしたことがあるかもしれない。だが、数多くのCMの内容をみな忘れても、この「民子」のCMだけは忘れることはあるまい。(2001.10.14)

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