【新潮社】
『正しく生きるとはどういうことか』

池田清彦著 



 私のこれまでの読書に対する姿勢からすれば、きわめて異例のことではあるが、本書『正しく生きるとはどういうことか』という、非常に意味深なタイトルの本について、もしこれから読もうと思っていらっしゃる方がいるなら、とりあえず本書の「あとがき」を読んでみて、それから判断をしてもかまわないと考えている。なぜなら、こと本書のあとがきに関しては、とくに本書の内容のことや、謝辞などといったものがくどくどと書かれているわけではないが、しかし、それだからこそ、そこに著者の最大の本音が垣間見えるからである。「あとがき」を読んで、どうにも肌にあわなそうだと思えば無理をして読む必要はないし、面白そうだと感じれば読んでみればいい。それを判断するのは個人の自由である。

「いや、それを判断するための書評だろう」と思われる方もいらっしゃるだろう。それはまったくもってその通りに違いないので簡単に説明すると、ここで言う「著者の最大の本音」とは、近年施行された「ボランティアをしなければ教員免許が取れない」という、著者の言うところの「アホの極みのような法律」への怒りである。そして、その怒りがどこから来ているかといえば、それはひとえに「個人の自由を制限していること」に尽きる。

 じつを言えば、本書が主張していることは、きわめて単純な論理によって成り立っている。本書に費やされている文章の大半は、この論理の具体的な説明と、その論理をあてはめたときに見えてくる現行の、私たちが生きている社会がかかえるさまざまな問題点や矛盾を浮き彫りにすることであると言っても過言ではない。

 人々が自分の欲望を解放する自由(これを恣意性の権利と呼ぼう)は、他人の恣意性の権利を不可避に侵害しない限り、保護されねばならない。但し、恣意性の権利は能動的なものに限られる。

 上述の教員免許の話に戻ると、人間にはそもそもどんな職業でも選択する自由があるはずなのに、その職業のひとつである教師になるためにボランティアをしなければならない、という制限をかけるのは、恣意性の権利を侵害する行為ではないか、ということになる。もちろん、この論理を突き進めていくと、そもそも教師や医師や弁護士になるために、国が選別試験をおこなうこと自体がおかしいことになってしまうのだが、著者はまさにそのように述べているのだ。なりたい者がなりたい職業に無条件になり、自由競争をさせられるような社会になれば、おのずとその技量によって差異が生じ、不適正な者は脱落していくはずである、と。個人は自分に合うと思う教師や医師や弁護士を、自由に選ぶことができる。かわりに、仮にその選択によって自身に不都合なことが起きたとしても、それは自身の責任となる。

 選択肢ができるだけたくさんある中で、自分に適したものを選択していく自由――本書は大きく「善く生きること」と「正しく生きること」のふたつについて論じた本であるが、いずれの場合もその根底に、「個人の自由を守ること」という大前提があるのは間違いない。たとえば、「善く生きること」とは、自分で規範をつくり、その規範に従って自分の生活を律していくことであると説いているが、世の中の大半の人が何かに対して不満や苛立ちをかかえているのは、たとえば国家や組織、資本主義社会といった、外から与えられる規範に、無理やり自身を合わせていこうとしているから、ということになる。学校でいい成績をとりたい、偏差値の高い大学に入りたい、お金がほしい、有名になりたい――人間である以上、欲望があるのはあたり前のことだが、言うまでもなくそうした現行の社会が認めるような、価値ある人間になれる者はごくわずかであり、大多数の人たちはそうした欲望をうまく満たすことができず、結果として不満をいだき、不幸だと思い込んでしまう。人の欲望は多様であるはずなのに、ある特定の規範ばかりが、あたかも唯一絶対のものであるかのように、人々に押しつけられてしまう現状があるからこそ、一見するとかなり破天荒なことを論じているように思える著者の考えは、想像以上の説得力をもつことになる。

 ようするに、今のこの日本という国は、大衆民主主義国家であり、資本主義国家であるにもかかわらず、人々が思ったほど自由に何かを選んだりできないような社会なのだ。そのあたりのことを、本書では「欲望のキャナライゼーション」と呼んでいるが、こうした差異化過程は避けられないとしても、国や社会が与える規範とは別の価値判断、つまり、なにより自分が善く生きるための規範をもつべきだ、と本書は説いているわけである。

 人は、どんな規範であっても、それに沿って生きる自由をもつ。しかし、だからといってたとえば誰かが「嫌な奴は殺してしまってかまわない」という規範をもってしまったら、それは大きな問題である。だが、ここで重要なのは、「嫌な奴は殺してしまってかまわない」という規範が許されないのは、別に道徳に反するとかいう理由ではなく、たんに殺される人間の「生きる自由」を侵害しているという、ただそれだけの理由でしかない、ということである。自分という人間が「恣意性の権利」をもっているのと同様、自分以外のすべての人間がもつ「恣意性の権利」も認めること、これこそが「正しく生きること」ということになる。

 ここまで読んでいけばわかるかと思うが、こうした考えは、一人前の大人であればあたり前のものとしてもっているはずの精神である。だが、人間というのは私も含めてバカなので、なかなかそうした境地に到れなかったりするわけだ。たとえば、私がこのサイトで「リクエスト書評」などをやっているのは、間違いなく私が好きでやっていることであり、誰かに強制されたわけではない。そして、他人は私に本をリクエストする権利も、リクエストしない権利もあるが、私が相手に「リクエストしてくれ」と頼む権利はない。また、リクエストに応えて書評をアップする権利は私にはあるが、その行為に対して相手からお礼を望む権利はない。ふつう、人に何かを頼んだのだから、そのことにお礼をいうのはあたり前だ、という考えがあるが、それをするしないは、基本的に当人の自由意志に拠るものである、というのが著者の考えであり、それゆえに道徳とか正義といったものは、たんなるフィクションでしかないと断ずるのである。このとき、私が自分のサイトで「リクエスト書評」を募るのは、私にとっての「善く生きること」であり、リクエストするしないを含む、あらゆる自由を相手に認め、自分の規範を相手に押しつけないことが「正しく生きること」であると言える。ただし、荒らし行為など、最終的には私の「善く生きること」の自由を侵害するような行為は、これに当たらないのは言うまでもない。

 あなたは、知らないうちに自分で納得のいかない規範に自分をあてはめようとしていないだろうか。また、知らないうちに自分の価値判断を相手に押しつけようとしていないだろうか。もし、それゆえに欲求不満を抱えているようであるなら、一度は本書を読んでみることをお勧めする。むろん、読む読まないはその人の自由であるが。(2004.12.24)

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