【ソニー・マガジンズ】
『トンネル・ヴィジョン』

キース・ロウ著/雨海弘美訳 



 東京や大阪といった、年がら年中道路に自動車が溢れ、渋滞が日常茶飯事の大都市に住む人々にとって、地下鉄とは便利で重要な交通手段のひとつである。それとも、大都市だからこそ地下鉄が発達した、と言うべきか。私の知り合いのひとりが勤めている会社などは、地下鉄の駅から外に出ることなく社屋に入ることができるらしく、雨の激しい平日などはなんとも羨ましいかぎりであるが、とはいえ、地下鉄はあくまで地下鉄、数ある移動手段のひとつにすぎず、それ以上でもそれ以下でもない、というのが地下鉄利用者の大半の思いであろうことは、容易に想像がつく。

 だが、ある種の人たちの目は、たんなる交通手段以上の何かを地下鉄というもののなかに見出しているらしい。今回紹介する本書『トンネル・ヴィジョン』は、そんな「地下鉄おたく」の、ロンドン地下鉄をめぐるこのうえなく熱い――あるいはまったくもって馬鹿馬鹿しい――戦いを描いた作品である。

 地下鉄はときめきとスリルと悲劇の宝庫だ。だいたいオリエント急行で飛び込み自殺をする人間が何人いる?――(中略)――千鳥足で乗り込んだ地下鉄で女の子と出逢い、翌朝、その娘とベッドで目覚めるなんて経験が、オリエント急行で何回できる?

 地下鉄はクール、そしてそんなクールな地下鉄を愛してやまないアンディは、翌日にはレイチェルとの結婚を控えた29歳の書店員。だが、そんな重要なイベントが明日に待ち構えているというのに、彼は朝早くに、ノーザン線の端にあるモーデン駅が開くのを待っている。アンディがこれから挑戦しようとしているのは、その日の始発から終電までにロンドン地下鉄267駅をすべて回りきるというもの。地下鉄おたくなら誰もが一度は夢みる――しかし実現させるにはあまりにも無謀な挑戦を、よりによって結婚式の前日にやることになったのは、同じ地下鉄おたくであるロルフの口車に乗せられたため。残り少ない独身時代を謳歌せんと連日飲みに出かけていたアンディは、酒の勢いもあって、自分ならその偉業をなしとげることができると豪語してしまったのだ。賭け金として差し出したのは、新婚旅行の航空券やパスポート、結婚式を行なうパリ行きのチケットなど、ようするに明日の結婚そのもの。もし賭けに勝つことができなければ、彼はレイチェルとの幸せな結婚生活を失ってしまうという状況に追い込まれているのだ。

 快速などで通過する駅はカウントされない、バスやタクシーなどの使用は不可、各駅のネームプレートを写真に撮る、といったルールを守りつつ、一日ですべての地下鉄の駅をめぐる――ごく単純に、始発が5:00、終電が1:00として制限時間を20時間とすれば、休憩なしにぶっつづけで挑戦することを前提としても、ひと駅に約4.5分の計算になる。もし可能だったとしても、よほど地下鉄の路線や時刻表、乗換駅の状況といった知識に精通し、効率のいいルートを導き出す技量がなければ達成できない難事であることが想像できる。だが逆にいえば、もしこのチャレンジをクリアすることができれば、その人の「地下鉄おたく」としての評判は不動のものとなる、ということでもある。

 限られた時間のうちに難関をクリアしていくという展開は、それだけでスピード感と緊迫感を生み出すものであるが、アンディの敵はたんに時間だけではない。日本にくらべてルーズな地下鉄の運行事情――遅延が常態化しているという現状はもちろん、信号機や車両故障、はては脱線事故などのさまざまなトラブルが彼の行く手を邪魔する。駅のホームが見えているのにドアが開かないまま数分が過ぎていくときのじれったさは、体験した方であれば容易に想像できるだろうが、そのうえアンディには取り返さなければならない賭けの対象があり、さらには深夜にパリへ出発するユーロスターの夜行列車に、レイチェルとともに乗りこまなければならない。はたしてアンディは、そのような離れ業をやってのけることができるのか。

 アンディは自他共に認める「地下鉄おたく」であり、それゆえにロンドン地下鉄全駅制覇という野望は、彼のおたく心をくすぐるに充分な魅力を秘めている。しかし本書にとって重要なのは、アンディのそうしたおたくとしてのメンツとは別に、「レイチェルとの結婚」という賭けの対象のためという要素がふくまれている点だ。そしてこのふたつの要素は、物語のなかで常にアンビバレントなものとして彼の心を揺さぶることになる。ロンドン地下鉄全駅制覇は、たしかに凄いことなのだろうし、名誉なことでもあるのだろう。だが、仮に達成できなかったとしても、それで何かが失われるほどのものではない。極端なことを言うなら、地下鉄おたくとしてのメンツなど捨てて、ロルフに平謝りして賭けを無効にしてもらうという選択肢もあるわけだ。だが、メンツにこだわるアンディには、そうした別の可能性が見えていない。ゆえに本書では、その可能性を示唆する人物として、浮浪者のブライアンという登場人物を用意し、アンディとともにロンドン地下鉄を奔走させる。

 単純に記録への挑戦が本書のテーマであるなら、ブライアンはいなくてもまったく支障はない。だが彼がいることで、物語はより大きなドラマ性をもつことになる。

「お前さんは地下鉄の話しかしない。まるで地下鉄以外に大切なものなどないかのように。だがちょっと考えればわかるはずだ。地下鉄など、なんの価値もないってことに気づくはずだよ。――(中略)――いなくなる唯一の人――その人こそが大切なんじゃないか?」

 さまざまな人たちの思惑を乗せて、地下鉄は今日も運行する。その思惑のなかには、「地下鉄おたく」のように地下鉄をクールだと思い、愛をささげるがごとくのめり込んでいる人たちもいれば、ホームレスとなって地下鉄を生活の場として利用しているような人たちもいる。もちろん、地下鉄もまた交通機関としての機能を人間に期待されて生み出されたものだ。だが、そうした本来の思惑からはずれた部分にこそ、人間が人間であるがゆえのドラマが発生することになる。地下鉄を愛し、地下鉄がきっかけで愛する女性と出会った男が、心に抱えるアンビバレントにどのような結論を出すことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2011.09.28)

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