【ランダムハウス講談社】
『タイムトラベラーズ・ワイフ』

オードリー・ニッフェネガー著/羽田詩津子訳 



 以前このサイトで紹介した、コニー・ウィリスの『犬は勘定に入れません』という作品は、非常に多くの制限はあるものの、過去への時間跳躍が科学の力によって現実のものとなった未来を舞台としたコメディSFであるが、その書評のなかで、私は時間は相対的なものだと書いた。私たちが生きている今を現在として、未来は先の時間を、過去は以前の時間をそれぞれ指し示す尺度だが、たとえば今から100年後のある時間を現在としてしまえば、私たちにとっては未来のことも、100年後を現在とする人たちにとっては、すでに確定された過去ということになってしまう。そのとき、現在を生きる私たちにとって、その後の100年間は、はたして無数の選択肢を許容する混沌なのか、あるいはすでに確定されたひとつの事実しか存在し得ないものなのか、という命題――これは、数あるタイムトラベルものの作品における、ひとつの性質を決定づける重要な要素のひとつとなるものだ。過去が変えられるものだと判断されれば、その物語は「ありえないif」を楽しむもの、あるいは「歴史が語らない真実」を描いたものとなるし、過去が変えられないものであるとするなら、その物語は「より大きなものの流れ」を匂わせるもの、一種の運命論・決定論的な色合いをおびてくることになる。

 時間は過去から現在を経て、未来へと一方通行に流れていくもの。それが、私たちが認識している時間の概念であるが、それはあまりに強固であたりまえのものとして染み込んでしまっているがゆえに、私たちはなかなかその概念から抜け出して物事を考えることができないでいる。昨日の次に今日が来て、その次はかならず明日になる、という時間の流れこそが、私たちにとっては唯一の真実であるが、もし、そうした時間の概念とはまったく異なった時間の流れが存在し、そんな時間のなかを生きる人間がいたとしたら、いったいどういうことになるのか――本書『タイムトラベラーズ・ワイフ』という作品は、まさにそれぞれ異なった時間の流れを生きる男女の生涯を描いた物語だと言うことができる。

 物語は、ヘンリーという男性の一人称によるものと、クレアという女性の一人称によるものの、二種類の視点によって語られていくが、クレアが通常の時間の流れ、つまり過去から現在を経て未来へと流れていく時間を生きているのに対し、ヘンリーのほうは、そうした時間の法則でとらえることのできない、まったく独自の時間軸を生きている。つまり彼はタイムトラベラー、しかも、自らの意思では予測も制御も不可能な時間跳躍を強制されている人間であり、それゆえにクレアは小さい頃から、彼女にとっての未来からタイムトラベルしてきた30代、あるいは40代のヘンリーと何度も出会っているにもかからわず、まさに彼女にとっての現在を生きるヘンリーはそのことを何も知らず、28歳のヘンリーがはじめてクレアと出会ったときには、彼女のほうがより詳しく彼の未来を知る人物となってしまっている、という奇妙な時間のねじれ現象が生じてしまうことになる。

 タイムトラベルの概念については、それぞれの小説においていろいろな相違があるが、本書のなかでヘンリーが引き起こすことになるタイムトラベルは、思いのままに過去や未来を行き来できる非常に便利な能力であるというよりは、むしろ一種の病気に近いような性質のものとして描かれているのが、ひとつの大きな特徴である。つまり、彼は自分の意思でいつ、どこに、どのくらいタイムトラベルするのかをまったくコントロールすることができない。しかも、タイムトラベルにおいて自分以外の何ものも時間を超えることができない、という制限のため、タイムトラベルが発動すると、かならずどこだかわからない場所に素っ裸で放り出されることになる。そのあまりに未確定な部分が多すぎる、タイムトラベルという言葉の甘美な響きとは裏腹の、日常生活にも支障をきたしかねない不便な性質のために、ヘンリーは否応なくタイムトラベルからのサバイバル技術を余儀なくされることになる。それはとりあえず、服と金を手に入れるための犯罪行為、つまり鍵開けや窃盗、スリといった技術であり、人につかまらないための体力づくりだったりするわけだが、まさにそのタイムトラベルという性質を利用して、自身の技術を過去の幼い自分自身にレクチャーすることになったり、クレアや、あるいは彼女の知り合いに自身がタイムトラベラーであることを明かし、何らかの協力を求めたりもする。

 はたしてヘンリーの行為は、過去の改竄につながってしまうことなのだろうか。いや、彼がタイムトラベルした先でおこなってきた様々な事柄は、少なくとも彼自身が生きのびていくために必要不可欠な最低限度のことであり、そして生きるということは、彼がこの世に生まれてきた以上、尊重されるべき権利でもある。そして本書を読み進めていくうちに、私たちはヘンリーという人物が、まさに彼自身の時間軸においては、まったく予測不可能なタイムトラベルという意味において、じつは私たちとたいして変わるところがない、ということに気づくようになる。私たちが過去を遡ったり未来に跳んだりできないのと同じように、ヘンリーの時間の流れもまた、強制的なものなのだ。

「タイムトラベラーズ・ワイフ」というタイトルからもわかるように、クレアは後に彼女にとっての現在に生きるヘンリーと出会い、彼と結婚することになる。それは、彼女の幼少時代を過ごした未来のヘンリーにとっては既成事実ではあるが、まさに今出会ったばかりのヘンリーにとっては未来のことであり、結婚式当日に、不本意なタイムトラベルが生じやしないかと戦々兢々となってしまう。そして未来のヘンリーがおこなうのは、自身がクレアの夫として生きる、という事実を守るためのつじつま合わせでもある。そうしたタイムトラベラー独自のつじつま合わせの妙も、本書の大きな読みどころのひとつである。

 未来はけっして変えられない、とヘンリーは語る。ここで言う「未来」とは、彼自身が過去の事実となったことを知っている事柄を指しているわけだが、それは同時に、クレアの過去であり、ヘンリーにとっては未来のことであるタイムトラベルのことでもある。そして、未来は変えられないと言いながらも、彼はクレアの過去に干渉し、彼にとっての過去をたしかな事実として定着させるための努力を惜しまない。彼自身の自由意志という意味では、ヘンリーにはいくつもの選択肢があったはずであり、そのなかには過去のクレアといっさい干渉しない、という選択肢もあったはずである。だが、けっきょくのところヘンリーのタイムトラベルが、しばしばクレアのいる過去へと生じてしまうこと自体が、ヘンリーとクレアがその人生において深く結びついていることの、ひとつの証拠として機能しているとも言える。そしてそれは、ヘンリーとクレアにとってのひとつの愛の形でもあるのだ。

「避けられなかったからよ。あたしたちの人生は濃密にからみあってるから。あたしの子供時代は彼のせいですっかり変わってしまったし、彼はそれをどうすることもできなかった。彼は彼にできる最善のことをしたの」

 ヘンリーはたしかに時間を跳躍する力をもっているが、だからといって未来や過去を自由にすることができるわけではなかった。だが、それはけっきょくのところ、「過去」や「未来」といった相対的な概念ではなく、他ならぬたしかな「現在」を生きていくしかない、という意味において、ふたりは共通した認識のもとに生きていたと言うことができる。ふたつの異なる時間の流れを生きる者たちが結ばれ、そしてたどることになる結末が、いったいどのような形を見せることになるのか、おおいに期待してほしい。(2005.10.28)

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