【新潮社】
『父の肖像』

辻井喬著 



 自分という存在が誰の血を引く者なのか――誰の遺伝子を引き継いだ結果として、今ここにいるのか、という問題は、単純なようでいてこのうえなく複雑なものであると言うことができる。個性という点でとらえるならば、自分が誰の息子であり、娘であったとしても関係のないことであるし、その出自がどうであれ、それはまぎれもなく一個の独立した存在であることに間違いはないはずであるが、個性という目に見えない、とらえどころのないものは、えてして容易に変質し、あるいは崩壊する可能性のある脆弱な概念でしかないというのも事実であり、そのあやふやなものを唯一のものとして信じつづけることができる人間は、けっして多数派ではない。自分がどこの血縁に属しているのか、という問題は、その脆弱な個性を出自という点から補強するにはこのうえなく強固な要素であるし、私たちは意識するしないに関係なく、そうした血縁関係のなかに、まぎれもない自分自身を信じるよすがを求めずにはいられないものでもある。

 ひとりの人間として形成されていく個性と、一度成立してしまえばどうあがいても打ち消すことのできない血縁関係の強固なつながりという問題は、昔から文学にとっては大きなテーマのひとつであるし、それは今も変わってはいない。たとえば、生みの親を知らずに育った人間が、自身のこの世に生を受けることになったルーツをその生みの親に求めるのは、血縁関係がもつある種の絶対性ゆえのものであるし、またその絶対性ゆえに、たとえば自分の父親が発狂して死んだりすると、その子どもたちは自分にも同じ運命が待ち受けているのではないかと恐怖することにもなる。

 本書『父の肖像』は、息子という立場にいる人物が書いた父親の伝記という性質をもった作品である。ここでいう「息子」にあたる著者辻井喬は、セゾングループの実質的オーナーである堤清二、父親というのは旧西武グループの創業者で政治家でもあった堤康二郎のことを指している。西武百貨店や西武電鉄といった、おそらく知らぬ者はないであろう一大企業グループが今日の日本に与えた影響力の大きさを考えたとき、その創業者である人物の伝記があくまでひとりの人間、父親としての生涯を描くという性質に収まりきるものでないだろうことは、容易に想像できることでもある。じっさい、本書を読んでいくと、戦前戦後の日本の政治史、経済史の一側面をダイナミックにとらえることができ、日本の近現代を知る資料のひとつとしても大きな意味をもつ作品であることが見えてくるのであるが、ここで重要なのは、それだけの力をもつ人物であり、その気になればより客観的な立場に立つことのできるライターに書かせることもできたはずの伝記を、あえて息子の立場から書かなければならなかった理由である。

 私とは何か、何者なのかを探っていくと、どうしても父は私にとって何だったのかが意識され、それを解決する最初の作業として楠次郎を客観的に検証する必要があると考えたのであった。

 ごく普通の家庭環境のなかで生まれ育った人たちにとって、自分の父親が誰で、そして母親が誰であるかという問題は、そもそも問題として意識されることすらない、あたりまえの事実の再認識でしかない。それは、たとえば私たち日本人が「日本」というひとつの国に属する民であることを、諸外国と国境を接することのない島国であるがゆえに普段あまり意識することがないのと同じようなものであるのだが、著者にとっての父親というのは、自分という存在意義を大きく揺るがせるひとつの脅威のように映っていたところがあると言える。自分という存在を探っていくうえで、避けて通ることのできない父親という存在――ときには自分というちっぽけな存在をすっぽりと覆い隠し、私が私であるというアイデンティティすらも凌駕してしまいそうな、ある意味偉大で大きすぎる父親を、自分と同じ対等なひとりの人間としてとらえるために、どうしても書かなければならなかったのが本書であったとするならば、そこにあるのはひとりの偉大な人物が歩んだ生涯をかためる伝記というよりも、他ならぬ著者がとらわれている父親像の再構築をうながすという側面のほうが強いと言える。

 じっさい、本書の大半において、父親を客観的な視線でとらえるという試みは成功している。自分が父親を中心とする楠の家系のなかでは異質であり、そのなかに属していけないという性質は、本書の冒頭から強調されていることでもあるし、また世の中を冷めた目でとらえ、ときに自分を含めた世界を茶化すような姿勢とは裏腹に、父親がことのほか生真面目で、事業において大胆不敵なところがあるいっぽう、妙に小心で慎重な性格もあったということもとらえている。それは、他ならぬ息子という立場にあったからこそのものであるのは間違いないが、本書のなかでことのほか強調しようとしている事柄として挙げられるのが、著者の母親の存在に対するひとつの希望というべきものである。

 本書を読んでいくとわかってくるのだが、およそ生真面目を絵に描いたような性格で、趣味や遊びということを知らず、死の間際まで機関車のように突き進むような生き方を貫いた父親が、こと女性関係となるとずさん極まりない放埓さを見せ、また女性にひとりの人間としての人格を認めようとしない封建的な態度にも触れている。著者は本書において父親像の再構築をはかると同時に、自分の母親が誰だったのか、という点にも大きな力を注いでおり、そういう意味では本書は著者の出自という謎をめぐるミステリーとしての要素もあるのだが、そんな父親に反発するように共産党に入党したりした著者が、その反発心ゆえに、自身のアイデンティティの再構築の土台として、母親の血筋を求めようとしたとしても、それはけっして不思議なことではない。

 父の伝記であると同時に、著者自身の出自にまつわる部分についても客体化し、まるでひとつの作品であるかのように書いていくことに成功した本書であるが、では本書を書きあげることによって、著者のなかの父親の再構築がどのくらい実を結ぶことになったのか、という点について、おそらく著者自身もそれほど大きな成果を得ることはできなかったのではないか、という気が個人的にはする。本書のなかによく出てくる父親のイメージとして、「土堀の中から街道を通る武士の集団を覗く農民」という表現があるが、ことさらそうしたイメージを喚起させながらも、そこから大きく逸脱してしまう父親の姿が、常に本書のなかに溢れている。大胆さと慎重さ、人に対する優しさと冷淡さ、そして、政治家として民主主義の理想を追い求めていく姿と、実業家として辣腕をふるう現実主義的な姿――相反する要素を次々と見せる父親の姿は、見方を変えればけっしてひとつの性質でとらえきることのできない人間の本質そのものでもあるのだ。そしてそういう意味では、偉大な父親をひとりの人間としてとらえようとする試みもまた、成功したと言える。

 正直なところ、本書の登場人物が堤清二であるとか堤康二郎であるとか、あるいはセゾングループのオーナーであるとかいったリアルな部分について、私にはあまりピンとくるようなところはない。あるいは読者のなかには、そうした現実世界とのつながりについて意識せずにはいられない方もいらっしゃるだろうし、むしろそうした意識をもつ方のほうが多いのだろうが、本書をひとつの文学作品としてとらえたときに、そこにはひとりの人間が、自分もふくめた世界を一度解体し、そこから自分なりの世界を再構築していこうとする、やむにやまれぬ衝動がたしかにある。自分にとって間違いなくひとつの世界である父親――その大きな影響力から逃れるための試みのその結果が、本書のなかの、伝記の形式をとりながら、しかし完全な伝記にはなりきれなかった部分にこそあるように思えて仕方がない。(2007.04.28)

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