【幻冬舎】
『東京スリーズ・ダウン』

横森理香著 

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 あなたは、自分がごく自然な――男であるとか、女であるとか、どこの会社の社員であるとか、あるいは誰の子供であるとか、夫や妻であるとかいった、分別臭い社会的立場から完全に解放され、ただの一個の人間でいることのできる場所を、持っているだろうか。あるいはこう言うべきなのかもしれない。今のあなたから、社会的肩書きをすべて取り除いたとき、最後に残るはずの「まぎれもない自分」について、どれだけのことを知っているだろうか、と。

 90年代初頭の東京クラブシーンについて、私に語れることはほとんどない。その頃の私といえば、東京の大学に入学し、キャンパスライフを自分なりに満喫していた時期であるが、私自身の興味の対象と、ナイトクラブの流行とは、けっして交わらない平行線をたどっていた。わずかに、ボディコンのワンピースを着たイケイケギャルたちが、扇子を振りかざして踊るという、いわゆる「ジュリアナ東京」というのがニュースなどで報道されていたことから、そうしたクラブが社会現象のひとつとして扱われていることを知った程度であるが、今にして思えば、あのような非日常的な空間で、ひたすら踊り狂うという行為が、何の肩書きもない、素の自分を思いっきりさらけだすことにつながっていたとするなら、90年代初頭という時代は、バブル崩壊からはじまった価値観の急激な変化のなかで、けっしてそうした社会情勢に左右されることのない、確固とした自分を保つことが、ひとつの流行となった時代だと言うことができるだろう。そしてそれは、同時にそれまでの日本人が、いかに自分というものを置き去りにして進んできたか、ということの証明でもある。

 自分の考えだと思っていたものが、じつは多分に社会的規範の影響を受けたものである可能性が高いというのは、人間の性質がある程度、周囲の環境によって左右されるものである以上、仕方のないことであり、まさにそれゆえに個としての自分を把握するのは難しいのだが、本書『東京スリーズ・ダウン』に登場する星男こと星野尚史は、少なくとも自分がゲイであることを「どうにもこうにも、にっちもさっちもいかない自然のこと」として認めているという点では、人より自分というものの本質を見極めていると言えるだろう。だが、そのことが当人にとって幸せなのかと言えば、けっしてそうだと言い切れない現実が日本にはあるようだ。じっさい、世界のゲイシティたるニューヨークの自由、そして本場のクラブ――得体の知れない力に溢れる神聖な場所の魅力を知ってしまった星男にとって、日本という社会はあまりに窮屈で、息もつまりそうなほどの不自由を感じているように見えるからだ。

 だがもし星男に、ただ今という瞬間の自由のみを求める潔さがあるなら、本書の物語は成立しなかっただろう。なぜなら、それほどニューヨークが肌に合うなら、何が何でもニューヨークに「帰って」いけばいいだけの話だからだ。だが、星男はそうしない。それは、まがりなりにも大手繊維会社のサラリーマンとして、くる日もくる日も満員列車に揺られ、クリエイティブとはほど遠い仕事をしながら、週末になるとクラブで数少ないゲイ仲間とドラックをやり、うさ晴らしをしている自分の姿が、あまりに日本人的であることを、星男は誰よりもよく理解しているからに他ならない。ニューヨークのそれとはあまりにもかけ離れた、まったく「イケてない」日本のクラブシーンを馬鹿にしながらも、そんな自分もまた、何者かになりきるだけの潔さを持ち合わせていない、モラトリアムな人間であることを認めずにはいられないのだ。

 そもそもゲイである、というのは、男という肉体的な性をもちながら精神がそれを拒否することであり、言わば男でも女でもない、社会的常識からはずれてしまった存在だと言うことができるだろう。そういう意味で、完全に社会人になりきることのできないモラトリアム人間も、ゲイであることも、社会が押しつける価値観と価値観のはざまで揺れ動く、非常に危うい状態にいる人たちである。ゲイやドラッグといったサブカルチャー的要素が表面に出ているので見失いがちではあるが、本書の大きなテーマは、モラトリアムな青年の成長を描いた、ごくごく正統的なものであり、話の内容自体はけっして目新しいものではない。だが、星男も含めたゲイ仲間たちは、そうした危うい自分自身を、なんとか保っていこうと必死であり、その様は、「ゲイ」という言葉が持つ世間的な――言いかえれば差別的な意味を寄せつけないいじらしさを感じさせずにはいられないものがある。ひとりでいるのはあまりに寂しく、心細すぎるがゆえに、とにかく自分と似たものたちといっしょにいたいという、ある意味で脆く儚い人間関係と、ドラッグという安易な現実逃避によって、その日その日をかろうじて生きている彼らの姿は、なんのことはない、私たち自身の姿に他ならないのだ。

 そして、そんななか、星男はあらためて、自分というもののあり方を見つめなおしていく。ゲイであることを否定せず、かといって自分が「イケてない」日本人であることも否定しないで、ありのままの「星野尚史」として、どのように生きていくべきなのか、と。

 僕はたぶん、「なにか」をするために「いま」、「ここに」生まれて来たんだ。だけど、今この時代に、ここで、僕が、僕にしかできない、何ができる? そう思うと、自分はあまりにも小さく、ひ弱な人間に感じてしまう。
 ここにいるみんなは、たぶんおんなじことを感じてる。みんな考えてるんだ。どうやったら、「私に正しいライトが当たるの?」って。

「まぎれもない自分」をたしかに持っている、そしてそれゆえに傷つきやすい人たちの生き方のひとつが、ここにはある。傷つきやすい、ということは、同時に自分を殺してしまうものに対して敏感でもある、ということだ。その感覚が、まだ自分にあると思うなら、それはあなたにとって大切な宝物となるだろう。傷つくことを恐れるあまり、自分そのものを社会的規範に埋没させ、痛覚すら遮断してしまったら、「まぎれもない自分」の存在すら信じられなくなるかもしれない。それはある意味、「ヒューマン」であることを否定することと同義だ。あなたは、あらゆる肩書きを取り去ったあとに残る「ヒューマン」としての自分の形を、ちゃんととらえているだろうか。(2001.10.26)

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