【河出書房新社】
『東京プリズン』

赤坂真理著 

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 たとえば、日本人である、ということについて、考えてみる。
 私にとって、自分が日本人であることは、とくに意識することもなくあたり前の事実として備わっていると思っている。だが、自分が他ならぬ日本人であることをいかにして定義するのかと考えたとき、とたんに言葉に詰まってしまう自分に気がつくことになる。私はたしかに日本人のはずなのだが、それをどう説明すればいいのか、語るべき言葉をもっていないのだ。

 これは、たんに「日本国籍をもっている」というだけで済まされるような問題ではなく、また「日本語を母国語としている」というだけでも不充分なように思われる。もしあえて言葉にしてみるなら、皮膚感覚的な日本人としての気質の有無――たとえば、どこか外国の地で偶然日本人と出会ったときに、ただ彼が日本人という事実だけで通じ合えるものがたしかにあるという、あの感覚に近いものが、日本人としての定義と言うことができるように思える。逆に言えば、そんな曖昧なものしかないのか、ということにもなるのだが、その要因を突きつめていったときに、出てくるのは日本の戦後の意味であり、もっとぶっちゃけてしまえば第二次世界大戦における日本の敗戦の意味である。あるいは敗戦を機に、日本人であることの意味が以前と大きく異なるものとなってしまった、と言い換えてもいい。

 今回紹介する本書『東京プリズン』は、ひとりの少女による「東京裁判」の再定義を書いたフィクションである。東京裁判、正式名称極東国際軍事裁判。日本が無条件降伏を受け入れた後に行なわれた、日本の戦争責任者を裁くための軍事裁判のことであるが、本書を読み終えたときにまず認識させられたのは、まさしく私たちひとりひとりが「日本人である」ことの定義を、いかに忘れ去って――あるいは意識することをなくしてしまったか、というひとつの衝撃である。

 私たち日本人は漂泊の民ではないだろうか。というより、故郷と自分の身心を、自ら切り離した民なのではないだろうか。だからこんなに国土を切り刻んでお金にできるのだ。お金は、殖えもすれば消えもする。風景は、消えたら戻ってこない。

 上述の引用は、多くの日本人を熱狂させたバブル経済において、土地が投機の対象として売買され、あるいは切り取られ、あるいは開発されていった時代のことを指している。語り手である赤坂真理の家族もこの熱狂に巻き込まれ、結果として住むべき家をなくし、父の事業の失敗と死をきっかけに家族が離散した経験をもっている。彼女にとっての生まれ育った家は、もうない。そして本書は、そうした個人の経験を日本人全体の経験として還元するための物語、という側面をもっている。彼女の「失われた家」は、日本人にとっての「失われた故郷」でもあるのだ。

 こうした、個を全に還元するための装置が本書にはいくつも用意されており、その巧みさこそが本書の本質と言ってもいいものがある。たとえば、語り手の母親の秘密。これはじっさいには秘密というほどの大袈裟なものではなく、彼女の母親がかつて、東京裁判の通訳をしていた、というものであるが、それは彼女の家族にとってはタブーに等しいものであることに、かつての彼女は気づかされる。そしてそれは、日本にとって、戦後を語ることがタブーであるという感覚へとつながっていくことになる。たとえば、中学や高校の歴史において、戦後史がかならず時間切れとなって学ぶ機会がなくなる、といった事実とシンクロしていくという形で。

 そしてこの日本人のタブーの意識は、中学を卒業後に単身アメリカに渡り、そこの学校で進級試験としての「天皇の戦争責任」にかんするディベートに出席せざるを得なくなった語り手が、終戦当時の資料を読み進めていくうちに感じとる「隠されているもの」として顕在化していく。ここでも、語り手の母の秘密は、日本人の秘密として結びついていく。

”ヒロヒト”とは、誰だったのだ?
 外国のテキストではエンペラーとさえ呼ばれない人。
 ――(中略)――
 なのに、それが天皇とすら声でも姿でも確認できない人が、天皇の名のもとに、終わり――という意味のこと――を言ったら、戦争が終わった。
 とても不思議な感じがする。
 私の国の秘密と言っていいくらいの。

 主語を明確にしなければ成り立たない英語圏で、かつ敗戦後の日本を裁いた立場にあるアメリカという国で、「東京裁判」を模したディベートの場に立たされた語り手は、結果として単位を取得できず、逃げるようにして日本に戻ったという過去を抱えている。本書はその頃の語り手と、作家として細々と暮らしを立てている今の語り手とのあいだを行ったり来たりするような構造となっているうえに、今の語り手が夢や想像力によって過去の自分とコンタクトをとり、そのときには失敗に終わったディベートのための手助けをするという展開であり、何が現実で何が想像の産物のか、あるいはどこまでが現在でどこまでが過去なのか、といった境界線がかぎりなく曖昧になっている。

 さらに言うなら、本書には小人や「大君」と呼ばれる存在、あるいはヴェトナムの結合双生児の幻といった、どこか寓話めいた要素がしばしば物語に登場し、そのなかで語り手は、しだいに自身の明確な立場さえ曖昧になっていく。この曖昧さの過程は、たとえば語り手がアメリカで体験した、「 I 」を明確にすることからは逆行するものであるが、他ならぬ「私」を主語にすることでは伝えられない、まさに「皮膚感覚的な日本人としての気質」によって、今一度東京裁判を、そして戦後日本をとらえなおすために必要な、非常に遠回りな試みだと言うことができる。

 私が世界を回しているのではない。世界は回る。世界は、回ることそれ自身知っている。自ずから然る。ただ、回るには、中心が必要なのだ。そこへ入ること。それが我が系譜に綿々と続いた役目なのだと私は理解した。

 語り手のアメリカでのディベートを、敗戦後に行なわれた東京裁判と重ね合わせること――個を全に還元するための物語は、ふたたび「天皇の戦争責任」を問う模倣裁判の場へと収束していく。はたして語り手がそこで何を目撃し、そして何を語るのかは、ぜひ本書を読んでたしかめてもらいたいところであるが、私たちが戦後、そうとは知らされることなく忘れ去っていたこと、あるいは意図的になかったことにしてきた事柄の多くを、本書は目に見える形として突きつけてきた、という意味でラディカルなものをたしかにもっている。

 私にとっての「戦後」とは、すでに空気のようにそこにあるものであって、だからこそあえて意識する必要も感じなかったことである。だが今、集団的自衛権の問題をはじめ、本書で言うところの「借り物の物語」であるがゆえのほころびが、現実の日本でも見え始めているように思える。じっさいのところ、日本の戦後はいつまで「戦後」なのか、そして日本にとっての民主主義とはどういうものなのか、他ならぬ日本人の皮膚感覚でとらえなおす時期が来ているのかもしれない。(2014.08.19)

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