【講談社】
『テロリストのパラソル』

藤原伊織著 
第41回江戸川乱歩賞受賞作 



 六〇年代末期に起こった学生闘争について、あなたはいったいどの程度のことまで知っているだろうか。
 残念ながら(やはり残念ながらという他ないだろう)、私はそのとき、まだこの世に生まれてさえいなかった。私が知っているのは、ごく一般的な――教科書に載っているような知識としての情報と、松下塔子が言うとおり、その時代を生きた人たちが、自分たちだけの特権みたいに「古くさい懐旧譚をしゃべるってことくらい」のもの、その程度のことだ。

 今となっては大昔の話、伝説の時代のことでしかないのかもしれないし、かつての学生闘争を「古き良き時代」として再評価するつもりもさらさらない。もちろん、自分にその資格があるとも思えないのだが、学生闘争の敗北、そして三島由紀夫の自衛隊決起の失敗および割腹自殺によって幕を明けたとも言うべき七〇年代から現代にかけて、私たちはどこかに、何かを置き去りにしたまま、ただ世の中の変化に身をゆだねるようにして生きてきたのではないか、という焦燥感だけはなんとなく想像することができるように思う。私が思うに、七〇年代を境にして、人間はおそらく二種類に分かれてしまったのだ。すなわち、多くの価値観が崩壊し、あらゆるものが猛烈な勢いで変化し、またその変化を増長するような気運さえ感じられるこの世の中で、変化にうまく乗り、変化を逆に利用して世の中を成り上がっていく者と、変化に対応することができず、あるいは変化することを拒否し、古くさい価値観をあくまで貫いていく者とに。本書『テロリストのパラソル』を読み終えて、私がまず思ったのは、けっきょく前者と後者の、変化することと変化しないことの、どちらがより幸福だったのだろうか、ということなのである。

 新宿中央公園で白昼に起きた爆発事件――死者十数名、負傷者四十数名の被害を出した空前の爆弾テロの現場に居合わせていたアル中のバーテンダー、島村圭介の心の奥底に、いったいどのような想いが去来したのか、彼は爆心地に足を運び、そこに倒れている女の子をひとりの宗教勧誘の青年に託し、「真っ先に女の子を助けないとお前を殺す」と脅してその場を後にする。島村圭介――かつて桑田誠、園堂優子とともに学生闘争を闘い、七一年の車爆弾事件の容疑者として桑野とともに指名手配されていた菊地俊彦の、現在の名前である。その事件の日の夜、彼がひとりで勤めるバーに、ふたつのヤクザ勢力が訪れた。そして彼は、ひとつの確信を得るのだ。この場所も、もはや安全ではなくなっている、と。

 七一年の車爆弾事件――すべてがそこで終わり、そこからすべてがはじまった、と言うことができよう。菊地俊彦にとってその事件は、警察から追われる日々のはじまりを意味していた。かつて仲間とともに学内にたてこもって体制と闘い、学生闘争から抜けた後もボクシングという戦場で戦いつづける生き方を選んだ菊地は、その日を境に表面上、闘う人生から逃げる人生を生きなければならなくなった。だが、彼にとって逃亡生活というのは、けっして後退を意味しているわけではなかった。名前を変え、居場所を変え、働く場所を点々としながら、しかし彼は逃げつづけることによって「国家権力の暴力装置」である警察と戦いつづけていた。だからこそ、車爆弾事件が時効になってもなお逃げることをやめようとはしなかったし、今回の爆弾事件においても、重要参考人でありながら、警察に出頭するのを拒否するのである。

 園堂優子の娘、松下塔子のアプローチ、徐々に明らかになる犠牲者のなかに、かつての学生闘争のメンバーである園堂優子と桑田誠の名前が入っている、という事実、警察庁幹部が爆弾テロの犠牲になったという、過去の車爆弾事件との奇妙な一致――偶然で片づけるにはあまりに出来すぎた今回の爆発事件の中に、何者かの作為を感じた菊池は、優子と桑野を殺した犯人を見つけるために行動する決意をする。もちろん、警察の力を借りることなく――彼にとっての闘いは、まだ終わったわけではないのだ。

 世界は常に移り変わっていく。それは人の心であっても例外ではない。そして今、私たちは、確かなものなど何もない、不安定な時代を生きている。誰もが自分自身のことだけで精一杯であり、また自分さえよければ周囲がどうなろうと知ったことではない、という悪しき個人主義と、想像力の欠如した人たちで溢れる時代――それが今という世の中だ。そんななかにあって、友情とか約束を守るとか、筋をとおすとかいった考えを持ち、それを貫くためには体制や組織と闘うことも辞さない、という菊地の存在は時代遅れであり、また今の時代には流行らない、ということになるのだろう。もっとはっきり言うなら、菊池は「損な性格をしてる」のだ。だが、塔子にしろ、中堅ヤクザの浅井にしろ、新宿西口のホームレスたちにしろ、そんな彼を見放したり、逆に利用したりするようなことはない。まんまと利用されるほど頭が悪いわけではないのはもちろんだが、変化するのがあたりまえの現代――そのなかでただひとり、安易に変化の波に流されることなく、古くさい価値観を背負って立つ菊地の姿に、どんなに薄汚れ、傷だらけになっても孤高に立つ者としての威厳のようなものを感じるのだ。それゆえに、本書のなかにしばしば現われる「間」――とくに似た者どうしでもある浅井と菊地との会話に差し挟まれる「間」には、絶妙な色合いがにじみ出てくるのである。

 浅井はグラスを口に運んだ。私も同様にグラスをとった。彼は窓の外に目をやった。私も同じ方向を眺めた。明るい中庭が見える。銀髪の初老の白人女性がひとり、ベンチにすわっている。――(中略)――ほかにはだれもいない。静かだった。
「いい天気だな」彼がいった。
「ああ」私はうなずいた。
 浅井はそのまましばらく黙っていた。私と同じくらい年を重ねた男の表情があった。

 はたして、あの爆発事件を引き起こした犯人は誰なのか、そしてなぜ、あんな無差別殺人を行なわなければならなかったのか――そのすべてが明らかになったとき、七一年の車爆弾事件からはじまったひとつの宿命に、切ない終止符が打たれることになる。それは同時に、菊地にとっての闘いにひとつの区切りがつけられることも意味する。変わらないものなんてない、それは事実だ。だが、ずっと変わらないもの、変わってほしくないもの、変わらないことによって価値が出てくるもの、そういったものもあるはずである。そして、私はあらためて思う。ニューヨークで日傘をくるくると回していたテロリストにとって、変化することと変化しないこと、どちらが幸福だったのだろうか、と。(2000.03.03)

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