【風濤社】
『知恵の落とし穴』

高史明著 



 アイデンティティの確立とか、個性の尊重とかいった文句があちこちで叫ばれるようになって久しい。その背景に学歴重視、知識詰め込み型の戦後日本が進めてきた教育制度が、けっきょくは上からの命令に忠実なだけの、頭でっかちな人間ばかり育ててしまったことへの反省があるのは明らかだろう。自分がほかの誰でもない、まぎれもない自分自身であるという認識――私もこれまでに多くの本を読み、しばしば上述の言葉を用いて、読んだ本のテーマとしてアイデンティティの確立や人間としての成長といったものを取り上げてきた。そしてそれは、「人間とは何なのか」という究極の問いかけにもつながっていく、非常に重要な命題であると思っているし、その気持ちは今も変わっていない。だが、そもそもなぜ私たちは「人間とは何か」と問いかけ、自分の本当の姿を捜し求めなければならなくなってしまったのだろうか。

「自分を好きになれないのに、人を好きになれるはずがない」。こんなたぐいの言葉にしばしば出会うことがある。それ自体はけっして間違いではない。だが、こうした言葉の裏に、「だからまず自分を好きにならなければならない」というメッセージを読みとるとき、私はいつも困惑してしまう。なぜなら、自分が自分を好きになれないのは、自分がときにひどい裏切り行為をはたらく存在であることを知っているからである。自分が何をしでかすか、自分にもわからない。どんな人格者であっても「魔がさす」ことがないと、いったい誰に断言できるだろう。ある日とつぜん、何の前触れもなく死んでしまうこともある肉体のなかに宿る、あまりに脆くて儚い「自分」という得体の知れないもの――こんな自分をどうやって信じればいいのか、考えれば考えるほど途方に暮れてしまうはずなのだ。

 本書『知恵の落とし穴』に書かれていることを要約するならば、つまりはこういうことになる。「人間の知恵を無条件に信じるな」と。そのために著者は戦後教育をはるかにさかのぼり、明治維新のさいに日本が西洋から取り込んだ近代化、つまり科学に代表される、あらゆるものを人間とそれ以外のもの、あるいは自分とそれ以外の存在とに分けて考えることを前提にした、極めて合理的な知恵のあり方について、疑問を呈している。自分をまぎれもない自分だと認識することができる、人間の知恵――私たちがあたり前のようにとらえているそうした考え方自体が、逆に自分をとりまく大いなる自然の恩恵から自分自身を切り離し、深い闇のような孤独に陥らせているのであると、著者は述べる。

 よくよく考えてみれば、この地球の壮大な歴史に比べれば、人間の歴史などたかが知れたものである。さらに人間が近代化によって科学技術を発達させてきた歴史にいたっては、ほんの数百年程度のことでしかない。たかだかその程度の浅い歴史で人間がたどり着いた境地など、地球そのものの歴史、大自然がもたらす大いなる英知の前には塵にも等しいものだと言えよう。だが、そうした真理も、こうして人間のあみ出した文字で表現されると、いかにももっともなことであり、またいかにもわかったふうに思えてしまう。それこそが著者の危惧する「知恵の落とし穴」に他ならない。

 ひとつ例を挙げよう。昔、算数の時間に習った割合の問題である。教科書では「8:15=1:x」などといった式で表現されるものであるが、この記号の本質を理解したのは、私がひとり暮らしをはじめ、自分で料理をするようになった学生時代のことだった。スーパーに買い物に行き、棚に2kgの米980円と、5kgの米1,850円があって、どちらを買ったほうがお得なのかを考えたとき、はじめてあの式の意味がわかって愕然とした覚えがある。それまで12年という長い時間をかけて学習してきたことの意味がこんなところにあるとは、これまで誰ひとりとして教えてくれなかったことなのだ。こうした知識と体験の分裂が、人を殺してみたかったからという理由で本当に人を殺してしまった少年の犯罪へとつながっていくと語る著者の言葉には、私自身深く納得させられるものがあった。

 万物は本質的に平等です。気が付いてみれば、万物が同じ「いのち」の上に連なっているのです。同じ「いのち」を生きている。私だけのもののように考えていた「いのち」とは、人間の仮の知恵が描き出した幻想に過ぎないと言えます。

 著者の高史明は、たったひとりの息子に自殺される、という経験から、自身が息子を、しいては自分以外の生き物を、自分と同じ「いのち」あるものとして見えていなかったことに気づいた、と述べている。近代の合理的人間の知恵から見れば、人の死はあくまで死でしかなく、その起こってしまった事柄について嘆き悲しむのは、その人にとって時間の無駄でしかない。死んだ者はけっして生きかえらないのだから、そのことを悲しむよりも、もっと有意義なことをすべきである、という主張はたしかに正しい。だが、たったひとりの息子に先立たれた父親としての心は、どうあがいても割り切れない思いで張り裂けてしまっている。泣くべきときに泣けないような考え方が、はたしてこの地球に生きる者として、正しいものなのか、という疑問――著者はその後、仏教、とくに親鸞の世界へと傾倒していったため、本書の中にも多分に宗教的なところが見え隠れするところがあるが、仏教の本質が解脱、つまり自分という俗なものの見方から解放されることであることを考えたとき、私たちはたとえば、自他の垣根が極限まで希薄なものになった結果、まるで自分のことのように他人の悲しみを共有し、宗教を越えて世界中の人から愛されたマザー・テレサの姿を思い浮かべるという事実を、もっときちんと考えるべきであろう。

 人間は科学が信じているほどに強い生き物ではないし、人間の知識で見えてくるものなど、たかが知れている。人間の体が、どこかたった一箇所が異常なはたらきをしただけで、容易に病気になってしまうように、私たちは本来弱く、盲目な生き物であり、じつは自分以外のあらゆるものの恩恵によって生かされている、という認識を、私たち人類はいいかげん受け入れるべき時期に来ているのではないだろうか。本書を読むことの最大の意義は、まさにそうした認識をあらたにする、という点にこそある。(2003.03.18)

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