【集英社】
『幻をなぐる』

瀬戸良枝著 
第30回すばる文学賞受賞作 

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 自分の意志や思い、感情といった主観に対して、自身を取り巻く環境や、自身が関係している人がそれとは相反する反応を示したり、正反対の意見を提示してきたりするようなとき、その人は煩悶をいだくことになる。たとえば、どうしてもアイドルになって芸能人デビューしたいと願っている人がいたとして、両親や友人などの身近な人たちが、揃って反対意見を出してきた場合、その人はアイドルになりたいという自身の気持ちと、アイドルになどなってほしくないという周囲の気持ちとのギャップによって煩悶する。とくに、アイドルになるというひとつの目標がたんなる憧れの域を出ないようなものであればまだしも、より具体的な形をともなって見えているような場合などは、煩悶の度合いもそれだけ跳ね上がっていく。

 私たちが主観の生き物であるということは、過去の書評において何度も繰り返してきたことであるが、主観と客観との摩擦に煩悶するためには、何より自身の主観をしっかりと捉えていなければならないという前提がある。自分が何を感じ、何を考え、どのようなことを欲しているのか――そのあたりが曖昧なままでは、周囲との差異も曖昧になり、したがってそのギャップに煩悶するなどということも、基本的にはありえないということになる。だがけっきょくのところ、こうした考えはあくまで論理上のものでしかない。自分のあらゆる気持ちがすべて言葉で完璧に説明できるわけでもないし、まして言葉で説明できないものが、だからといってこの世に存在しないということにもならない。たとえ根本的な理由がわからなくとも、私たちには何らかの主観があるし、煩悶することだってあり得るのだ。

 言葉では簡単に説明のつけられない気持ちや思い、感情といったものを、何とかして表現しようとすることも、小説のもつ役割のひとつであるとすれば、本書『幻をなぐる』に登場する中川は、はたしてどのような思いを抱き、何に煩悶しつづけてきたのだろうかと思わずにはいられない。

 こんなにくだらないものが運命なのかと、冷淡に自己を評したりする。またその一方で、こんなにくだらないのが運命であるはずがないと虚無に振り乱され、右往左往してもいる。その二つの感情の間にきっと今いるのだろう。はっきりとそれだけはわかる。

 本書は表題作のほかに『鸚鵡』という作品を収めた小説であるが、表題作『幻をなぐる』の冒頭にあるのは、「煩悶する」という言葉だ。そしてその言葉が象徴するように、登場人物である中川は煩悶の人生をおくりつづけている。小さい頃から思っていることや感じていることとは相反する行動をとっては、そのことを後悔するような不器用な性分の彼女は、絵描きを志して東京の美大にかよったものの、けっきょく何者にもなることができずに田舎に舞い戻っており、今は薬局を営んでいる実家で何をするでもない日々を過ごしている。そして今、彼女を煩悶させている最大の要素は、かつて同じ画塾で知り合った男である。四年ぶりに再会したその男といつしかステディな関係をもつにいたった中川は、そのときのめくるめく気持ちの高揚に、これこそ「奇跡の愛」だという確信をいだくにいたったのだが、いっぽうのその男にとっては、たんに自身がはまり込んでいる妙な新興宗教の、あらたな信者を勧誘するための枕営業でしかなかった。

 自分が女性としてさほど魅力的でないこと――より直接的に言うなら「ブス」であることを自覚しているところのある中川は、それゆえに純粋な愛などというものを馬鹿馬鹿しいものだと思い込んでいた。にもかかわらず、その男との再会によって、自分があっさりそんな馬鹿な女と同じ立場に追いやられてしまっていることに気づいてしまう。ここにも、自身の主観と客観、自分がたしかに感じたはずの気持ちと、相手の思いとの大きなギャップが発生し、そのギャップゆえに煩悶するというパターンが生じているわけだが、ここでひとつ注目すべきなのは、中川が「自分の気持ち」として受け止めているものの判断基準として、自身の肉体が感じとったもの、より具体的には、セックスした男との肌感覚であったり、恍惚とした一体感といったものにより重きを置いているという点である。

 これは本書に収められたもうひとつの作品である『鸚鵡』でも共通していることであるが、彼女たちが関係をもつ男たちは、概して頭でっかちで、どこかから借りてきたような論理を披露しては悦に入っているところがあるのだが、そんな彼らのことを幼稚だと思っている女性たちもまた、じっさいにはより確かなものを求めずにはいられない。それは、自身の体という物質としてたしかに存在するもの、そしてその体の五官がとらえる感覚といった実際的なものであり、男たちがこねくり回す実体のない思考などよりよほどわかりやすいものであると言えるが、本書のなかで彼女たちは、そうした肉体の感覚に裏切られてしまっている。

 自身の体が感じとるものへの限りなき不信感ゆえに、彼女たちの煩悶はとどまるところを知らない。日々彼女を苛みつづける男の記憶を消し去るために中川が取った方法は、その不信感あふれるはずの肉体を過度に鍛えあげるというもので、結果として同じ方法論を繰り返しているだけだというところがこのうえない皮肉にもなっている。現状の脱却を求めてあがいているのに、よりいっそう深みにはまり込んでしまうという状況は、はたから見れば滑稽ですらあるのだが、さらに彼女たちは、自身の行為についてどうにかして理屈づけをしようと独白し、言葉をこねくり回してしまっており、それはけっきょく、論理を振りかざす男たちと同じわだちを踏んでしまっているのだ。

 鍛えれば鍛えるほどそれに応えて強靭になっていくおのれの肉体に、中川は自分にまとわりつく男の影さえもひねり潰すことができると信じた。だが、彼女にとってどれだけリアルに見えても、幻はしょせん幻でしかない。まさにそのタイトルにあるように「幻をなぐる」という滑稽な行為を、ひとつの奇跡として信じた女性が最後に何を悟ることになるのか、見極めてもらいたい。(2010.03.17)

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