【東京創元社】
『哲学者の密室』

笠井潔著 



 人間の死について考えるとき、私がふと思い出すのは、白石一文の『僕のなかの壊れていない部分』に登場する、主人公の青年がとらわれていたある思索である。それは、人間の死について、それを乗り越えるべきものとして定義し、その先にあるはずのものを必死になって思考しなければならない、というものである。人よりもはるかに聡明に生まれついた彼にとって、世界とそこに何の疑問もなく生きる人々は、あまりにも不完全で、あまりにも怠惰なものに映っていたのだろう。そして自身もまた、その凡庸な人々のひとりであるという事実に、必死になって抗おうとしていたところがある。彼にとっての「死」とは、世界の真実を解き明かすためのものであり、人が本当の、本来あるべき存在として、正しく生きるために向き合わなければならない必然の命題だったと言うことができる。

 ところで、人間の死を「乗り越えるべきもの」として定義した瞬間、死は時間軸のなかの「点」として認識されることになる。人はいずれ必ず死ぬ。それは、人生のある一点でもって切り分けることができるものとして、明確化される「死」である。だが、人間の死とはそんなふうに明確化できる現象なのだろうか。死を認識するのが他ならぬ個々の意識である以上、その意識が働かない状態において、人は自身の生と死を区別することができない、とも言えるのではないか。意識をもたない動物に生や死の概念が無意味であるのと同様に、たとえば人間にとって自身の「眠り」と「死」とを明確に区別するのは、ふたたび目覚めることができるかできないか、という一点のみに託されている。それは、考えてみればこのうえなく曖昧な、頼りないものでもある。

 小説や漫画の世界では、ときに主要な登場人物が死を迎える。それは、物語の役割のひとつとして、かならず何らかの――それなりに大きな意味をもつものである。物語のはじまりにおいて、すでに人が殺されてしまう推理小説についても同様だろう。探偵というのは、死の謎を解き、真犯人を言い当てることによって、最初に殺された人間の死に大きな意味を添える役割を負っているのだから。だが、たとえば横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』のなかでも対比されていたように、日航ジャンボ機の墜落というセンセーショナルな出来事によって日本中の注目を浴びることになる人間の「死」があるいっぽうで、病院のなかで毎日のように起こる、誰にも見向きもされないような老人の凡庸な「死」がある、というのも間違いのない事実である。はたして、このふたつの死の形に、どんな優劣がつけられるというのだろうか。

 どちらもまぎれもない「死」であるにもかかわらず、まるでそこに特別な意味や序列があるかのように感じとってしまうという人間の意識――本書『哲学者の密室』は、そのタイトルにもあるとおり、密室殺人が事件の中心として展開していくミステリーであり、現象学探偵・矢吹駆シリーズの四作目にあたる作品でもあるが、過去と現在でおきたふたつの密室殺人という現象に、死の哲学にかんする解釈の問題を事件解決の糸口として組み入れることで、本シリーズにおける一貫したテーマでもある、矢吹駆の「死」に対する立ち位置の変化や、彼が宿敵とするニコライ・イリイチが象徴する「悪」の形、またナディア・モガールの矢吹駆に対する心情の変化という意味で大きなターニング・ポイントとなる作品であり、またシリーズ最初の作品である『バイバイ、エンジェル』での、真犯人に対する扱いとその結果について、一応の決着がなされるという意味でも、シリーズにおけるひとつの集大成となる作品でもある。

 フランスでも有数のユダヤ系財閥であるフランソワ・ダッソーの屋敷で殺人事件が起こった。殺されたボリビア人ルイス・ロンカルは、発見当初は後頭部を床にぶつけた結果の事故死だと思われていたが、背中につけられた刺し傷は、あきらかに他殺をうかがわせるものだった。しかし、被害者がいた部屋は外から鍵がかけられ、窓もすべてふさがれた状態の密室であり、しかもその部屋につながる階段も、屋敷全体も、人の出入りすることのできない状態にあった。

 警察の調査によって、被害者はそのときダッソー邸にいたユダヤ人たちによって幽閉され、厳重に監視されていたことがあきらかになるのだが、ただの密室殺人と考えるには、残されていたナチス親衛隊の短剣の柄などあまりにも奇妙な点が多く、捜査は難航していた。しかし、事件当時ダッソー邸にいたユダヤ人たちが、第二次大戦中にコフカ収容所の囚人だったという過去が浮かび上がることで、物語は三十年前の収容所でおきた、もうひとつの密室殺人の経緯に向けられていく……。

 過去と現代で起きた、同じ三重構造の密室殺人、そしてその事件の背景に見え隠れする、二十世紀最大の哲学者ハルバッハの「死の哲学」――ミステリーの構造は第二次大戦のナチス戦犯の問題にまで遡る非常にスケールの大きなもので、そこに仕掛けられた謎もその背景にある思想的問題も複雑なものであるが、しかし密室における死という現象が何を意味するのか、という比較的はっきりとした視点で事件の推理がすすめられていくためか、矢吹駆の現象学推理の展開という意味では、シリーズのなかではもっともわかりやすい。単純に論理的整合性をもって事件を推理していく――それは、たとえばジャック・フットレルの『思考機械の事件簿1』に登場する探偵「思考機械」に代表される、十九世紀的推理小説の方法論であるが、そこから導き出されるものはけっしてひとつではなく、無数にまたがっていくものである、というのが本シリーズの共通認識である。そしてそれを裏づけするかのように、ダッソー邸の三重密室について、ナディアをはじめ何人かの人たちが、どうやって密室の中に到達するか、という視点で推理を展開し、その結果いくつもの、しかし論理的にはけっして破綻してはいない推理が生み出されていく様子を描いていく。そしてだからこそ、矢吹駆の「現象学的に直観された本質」が重要な意味を帯びてくることになる。

 それは言ってみれば、ひとつの謎を解くために、いかに論理的整合性のとれた解釈を構築するかということではなく、たとえば「密室」であれば、なぜ密室ができあがったのか、それが何を意味するのか、という現象に対する解釈をすすめていくことである。密室の本質が基本的に自殺を意味するものであり、それは「特権的な死の封じ込め」であるという解釈――それは必然的に、矢吹駆に「死」そのものの概念についての思索を迫る解釈であるのだが、そこから本書がかかえているもうひとつの、きわめて重要なテーマとして「死の哲学」が生きてくる。

 画然とした死ではない曖昧な死。人生の意味を残らず、一瞬にして照らし出すような特権的な死ではない、たんに人間を廃棄物に転化するに過ぎないような死。だらしのない、惨めきわまりない死。それを見すえ、その事態を心から承認し、それを肯定できないとしたら、人間は自分を肯定することなんかできはしない。

 人生のなかの「点」として厳密に区別できる「死」の先にあるものを見極めよう、見極めたいという欲望――しかし、死が点として区別できるようなものではないとするなら、死の先などどこにも存在しないことになる。そのとき、死を先駆し、そのことで真の生を生きること、世界の秘密を解き明かすことを夢想する人たちは、結果として凡庸な世界そのものから目をそむけるか、けっしてとらえることのできない自身の死を、自分以外のものに置き換えるしかなくなってしまう。自分を殺すか、他人を殺すか――だが、それはいずれにしても、否定することによって生じるもの、死の本質から目をそむける行為でしかない。

 けっして明記されているわけではないのだが、矢吹駆もまた、死というものについて特権的な何かを求めていたのではないだろうか。本書の序盤において、ハルバッハの「死の哲学」にとらわれていたゆえにダッソー邸での密室殺人について、現象となる支点を読み間違えるというエピソードは、そうした彼の心情を暗示するものでもある。きわめてストイックに、自身の存在でさえ人間という現象としてとらえようとする矢吹駆にとって、死もまたひとつの現象であったことは想像に難くない。常に直面せずにはいられない、特権的な死か、あるいは凡庸な、忘れられた死か――本書は言わば、矢吹駆にとっての、自身がとらわれていた「死の哲学」との対決という意味合いも強い。そしてその対決が、そのまま時代を経て対比されることになったふたつの密室殺人の本質へと迫ることになる。

 一般市民が兵士として戦場に駆り出される戦争中であればともかく、平和な時代を生きる私たちが、ほかならぬ自身の死と直面する機会というのは滅多にないことである。そして、だからこそ人は「死」という未知のものを怖れ、あるいは心惹かれることになる。だが、はたして「私」という主体なき後にもなお存在する、真の「存在」とは、そしてそこに横たわっているおぞましい夜の世界とは、どういうものであるのか? けっしてとっつきやすい作品ではないが、おそらく現代社会における異常犯罪の問題にもつながっていく、死と存在に正面から取り組んだ本書をぜひ読んでもらいたい。(2007.02.09)

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