【角川書店】
『天地明察』

冲方丁著 

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 人間にとって、理屈で説明できない曖昧なものほど怖ろしいものはないし、それを長く放置しておけるほど強い心をもっているわけでもない。とくにその「何か」が、人の生死を左右したり、人々の生活に大きな影響を及ぼしたりするようなものであればなおのこと、人々はその「何か」をなんとかして解明し、納得のいく理由をつけて落ち着きたいという心理がはたらくものである。人類のこれまでたどってきた科学技術の進歩は、そうした未知のものへの挑戦――わけのわからないものから何らかの理を見出し、それを自分たちの理解の範疇にとどめておくという作業の積み重ねによって成し遂げられたものだといっても過言ではないのだが、問題なのはその理屈づけが、かならずしも物事の真理を導き出した結果によるものではなく、単なる解釈にとどまるものであっても、場合によっては理屈づけとして成立してしまう点にある。

 たとえば妖怪や幽霊のたぐいなどは、当時解明されていなかった自然現象や病気などの発生する理屈づけとして生まれてきたものであるが、それは逆に言えば、わけのわからないものを直視する強さをもてない普通の人々の、心の弱さがもたらしたものでもある。人の心は、ときに安易な理屈に飛びつきたくなるような性質をもつもので、それもまた一種の人間らしさということにもなるのだが、その弱さに打ち負かされることなく、物事の正しい理を見出そうと奮闘努力する人々の心の強さをまのあたりにしたときの、心震えるような感覚は、私たち人間が、より正しく人間でありたいという高みを目指す欲求を刺激する。本書『天地明察』を読んだときの心の震えは、そうした人間のありように素直に感動するからに他ならない。

「星はときに人を惑わせるものとされますが、それは、人が天の定石を誤って受け取るからです。正しく天の定石をつかめば、天理暦法いずれも誤謬無く人の手の内となり、ひいては、天地明察となりましょう」

 江戸時代、それも徳川幕府四代将軍の家綱から次の綱吉にかけての治世を舞台とする本書において、その主人公となる渋川春海という人物そのものが、さまざまな意味で象徴としての意味合いを帯びている点が、まずは本書を評するにあたってはずすことのできない特長のひとつとなっている。

 渋川春海は江戸で公務を勤める、いわば役人としての身分を与えられているが、その内容は囲碁の指導というものである。碁打ち衆として登城を許された一家のひとつ、安井家の正式な嫡男であり、安井算哲という、碁打ちとして代々受け継がれている名前が彼の本来の呼び名ということになるのだが、彼が生まれたときにすでに養子として安井家の名を継いでいた義兄への配慮から、必要に迫られないかぎり「渋川」の名を使うという特殊な事情を抱えている。

 当時、武士の教養のひとつとしてあった囲碁をもって出仕し、ときには将軍の前で囲碁の試合を披露するという、春海の本来の役割を考えるなら、安井の姓を名乗るべき立場にあるはずなのだが、彼はそうしようとはせず、むしろ意図して自身の身の置き所を曖昧なままにしているようなところすらあるのだが、本書冒頭においてまず描かれるのが、碁打ちとしての春海ではなく、城への登城前にわざわざ早起きし、奉納された絵馬に書かれている算術を前に夢中になる春海の姿であることから、何より算術家としての春海というキャラクターを特徴づけたい意図が見えてくる。

 しかしながら、才能という点で比較したときに、算術家としての春海は碁打ちとしての春海に遠く及ばない。言い換えれば、春海には囲碁のたぐいまれな才能が備わっている、ということになるし、同じく碁打ち衆のひとりで、若いながら才気溢れる本因坊道策とのやりとりによってもその事実を強調している。だが、その思いの強さという意味では、彼の心は算術のほうに大きく傾いている。

 上の命により帯刀を許されているが武士ではなく、囲碁打ちでありながら算術に傾倒し、また正式な名前をあえて名乗ろうとしない渋川春海は、彼の生きる時代においてまったく新しい立場、言ってみればまだどのような名称も与えられていない立場にある。物語はその後「極点出地」、つまり全国各地で北極点の見える緯度を計測するという大掛かりな観測事業を、他ならぬ春海が老中より命ぜられ、それがひとつのきっかけとなって、本書のメインテーマである改暦事業へとつながっていくのだが、これまで約八百年にわたって使われてきた、しかしそれゆえに正確さを失いつつある宣明暦に代わって、より完璧に近い、しかもどこの国のものでもない日本独自の暦を完成させるという物語を、いかにダイナミックなものとして書き上げていくか、ということを考えたとき、他ならぬ渋川春海という人物がその実行者として選ばれた意味がおおいに生きてくることになる。

 算術だけだった。これほどの感情をもたらすのはそれしかなかった。飽きないということは、そういうことなのだ。だから怖かった。あるのは喜びや感動だけではない。きっとその反対の感情にも襲われる。――(中略)――自分にそれが出来るだろうか。

 私たち読者にとっての「暦」とは、まさにそんなふうにあるのがあたり前の、ごくありふれたものである。だが、そのあたり前が、じつはまったくあたり前ではなかった時代がかつてあったという気づきが、本書のなかにはある。そのある種の衝撃は、SFでいうところのセンス・オブ・ワンダーと似たようなものであり、そうした衝撃をきちんとした段階を踏んで、周到に用意しているその構成の妙には舌を巻く思いがあるのだが、いまだ人の手に届かない天の定石を、他ならぬ人の手によって生み出された算術をもって解明していく中心人物は、あくまで春海であり、たとえば算術の真の天才であり、ことあるごとに春海に大きな影響をおよぼしてきた「一瞥即解」こと関孝和ではない。

 算術への尽きない情熱はあるものの、けっして算術の天才というわけではない春海は、言ってみればもっとも人間に近い人物であると同時に、どのような勢力や利害関係からも遠いところに身を置く立場にある。逆に、そうしたなんらかの勢力のもとで改暦事業が進められていったとしたら、きっとうまくいかなかったに違いないという雰囲気が、本書では醸し出されている。作中、春海は何度か大きな失敗をしでかし、そのたびに大きく意気消沈するのだが、彼がひとりで何でもできてしまう超人ではなく、あくまでひとりの人間であるからこそ、天の定石に手を触れるという改暦の壮大さが物語のなかに生まれてくる。

 人間の純粋な知恵による、天地の理に対するおおいなる挑戦――そのダイナミズムを保ちつづけるための鍵こそが、渋川春海という何者でもない、新しすぎてどんな身分も立場も与えられていない人物なのだ。だからこそこの大勝負は、こんなにも人の心を打つ。戦乱の時代から太平の世へと移り変わっていくなか、けっして武力をもちいることのない大勝負を描いた本書は、ただ爽快な物語というだけでなく、時代小説の新しい可能性に満ちている。(2012.10.31)

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