【東京創元社】
『掌の中の小鳥』

加納朋子著 



 たとえば、ある女性が人気のない裏通りで暴漢たちにからまれているところを、偶然通りかかった好青年の勇気ある行動によって救われる、という、まるでマンガのような展開を思い浮かべてみよう。その女性にしてみれば、青年がたまたま通りかかるという偶然がなければ、どんな危ない目にあっていたかわからない、という意味で、青年に対して好印象をもつことはあっても、悪い印象をいだくことは考えにくい。だが、もし彼女がこの一連の出来事になんらかの作為を――たとえば、その青年のあまりにもタイミングが良すぎる出現、という要素に対して――見出したとしたら、おそらくその女性の、青年に対する印象は一変してしまうだろう。なぜなら、偶然をよそおった作為というのは、しばしば詐欺行為と同等であり、そして一般的に、だまされることを喜ぶ人間は滅多にいないからである。

 嘘をつくこと、人をだますこと――そこにどのような理由があったとしても、そうした行為はけっして褒められるものではない。だが、それでもなおこの世に嘘と欺瞞が絶えないのは、おそらく大多数の人たちが、この世は不公平で不条理な事柄に満ちていることを知っているからだ。運の良さ悪さや生まれついての環境や身体的特徴、あるいは才能の有無など、努力だけではどうにもならない要素に対して、それでもなおあきらめきれない何かを抱いたとき、人は嘘を利用する。それは、言うなれば人間であるがゆえの弱さの象徴であり、だからこそそういった行為のなかには、人間臭さ、人間らしさというものが溢れている。

 きっかけというのはね、つまらない偶然プラス、ちょっとした作為だってことさ。

 本書『掌の中の小鳥』のなかで、冬城圭介はこんな台詞とともに穂村紗英の前に姿を現わした。彼がとあるカフェバーで紗英の姿を見かけたのは、たんなる偶然にすぎない。だが、彼は彼女と親しくなるために「ちょっとした作為」を利用し、紗英が体験した高校時代のある小さな謎に、じつに素敵な解答を示してみせる。自分の利益のためではない、純粋に相手への溢れんばかりの愛から生まれた、やさしい作為がたしかに存在する、ということ――だが、同時に圭介は、人間がつまらない虚栄心や、他人からすればどうでもいいようなプライドのために、ときに思いもよらない作為で自分も相手も欺こうとする生き物であることも、嫌になるくらい承知していた……。

 本書にかぎらず、著者である加納朋子が書き上げる作品に対して、ミステリーという位置づけを与えてしまうことに、私はいつもある種の抵抗を感じる。もちろん、それはミステリーにふさわしくない作品、というような悪い意味でではない。著者の作品は常に、日常のなかにあるごくありふれた、しかし人間として生きていくうえでとても大切な小さな謎と、その謎解きに満ちている。それにもかかわらず、私の内にそうした抵抗があるのは、おそらく著者の作品で示される謎解きが、「どのように」という部分ではなく、「なぜ」の部分――つまり、なぜそのような謎や不思議が生まれるにいたったのか、というところに重点を置いているからだろう。これは、刑事事件における「犯行の動機」に相当する部分であり、これは犯人が逮捕されればおのずとわかってくる、ミステリーにおいては本来、あまり重要度の大きくないものである。

 しかし、たとえば乃南アサの『殺意・鬼哭』における殺人者の心理を挙げるまでもなく、なんらかの犯罪行為に手をそめるさいの、当人にすら説明不可能な複雑な心の動きについて、私たちはいったいどれだけのことをわかっていると言えるだろうか。まるで善も悪も、光も闇も無造作に放りこんだ引き出しのように、無秩序で雑然とした人間の心は、おそらく私たちに示されている最大にして最後の謎であり、それゆえに私たちは、そうした心理を有する人間というものに惹かれずにはいられないのだ。

 そういう意味で、自他ともに認めるクールな性格で、ときにその洞察力の鋭さゆえに、人のもっとも触れてほしくない部分にまで踏み込んでしまう圭介が、そうした計算高い作為とはもっとも無縁なところに位置する紗英に恋してしまう、という本書の展開には、思わずニヤリとさせられる。一を聞いて十を見抜く沈着冷静な圭介の判断力をもってしても、まったく予想外の行動や心の動きを見せてくれる紗英、そしてそんな紗英の一挙手一投足に、思いがけない自分の側面を見出していく圭介――もし彼が紗英と出会うことがなければ、おそらくミステリーにふさわしいクールな探偵役を、そつなくこなしていくことができたに違いないのだ。だが、そうした探偵役としてはどこか不完全な彼の姿は、けっして悪い印象を読者には与えない。本書がまぎれもないミステリーであることは否定しないが、同時に、ともするとすべてを論理や理屈で割り切ろうとする、いかにも男性的なミステリーの世界に、理屈では割り切れない女の直感をたくみに組みこむことに成功した、言うなればひとつの人間ドラマでもあるのだ。

 僕が懸命に並べ立てる言葉だの理屈だのの、何とつまらなく空疎なことだろう?
 紗英は正しい。いつだって正しい。しかも女性は常に、男に対して勝利を収められるようにできているのだ。

 もしこの世が、この書評の冒頭で示したような「偶然をよそおった作為」で満ちているとしたら、人生とはなんと生きがたいものだろう。だが、もし仮に、そうした作為がまったく存在しなかったとしたら、この世はなんと味気なく、面白味のないものとなってしまうだろう。大切なのはそれが偶然か作為か、ということではなく、そこから私たちが何をはぐくんでいくのか、ということ――圭介と紗英との関係が教えてくれるのは、つまりはそうしたことなのだ。(2003.04.07)

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