【文藝春秋】
『テロルの決算』

沢木耕太郎著 



 たとえば、私たちが生活しているこの社会への不満を述べたてるのは簡単だが、その社会環境をより良いものにしていくために、具体的に何をどうすればいいのかを考えるのは難しい。おそらく理想論であれば、誰でもある程度のことは語ることはできるだろう。だが、その理想論を現実のものとするために、個人として何ができるのかを考えたとき、私たちはたちまち答えに窮してしまうことになる。

 私たちが今ある社会に不満をかかえているのは、その社会のどこかに不備があるからだ。そもそも、社会を構成する人の数が多ければ多いほど不満もまた大きくなっていくし、すべての人を満足させることのできる社会システムなど、それこそ理想論でしかありえない。だが、その仕組みに不備があるとはっきりしているのであれば、その不備を正していくべく尽力していかなければならないはずであるし、そうした動きが目に見えて効果をあらわしているのがわかってくれば、少なくとも不満は小さくなるはずである。

 人間社会は基本的に秩序を維持する方向で動いていくものであるし、そうである以上、現状を変えていくことに対して、いろいろ難しい問題が発生するというのも理屈としてはわかっている。そして、私たち個人にできる合法的な行為が、あまりにもちっぽけで、劇的でないという点も、私たちがおそらく慢性的に抱えている社会への不満の一要因である。若者の投票率の低下の根底にあるのは、自分の一票程度で社会は何も変わらない、という諦めであり、また自分の今さえよければそれでいいという無関心でもある。そして、そんなふうに考えたとき、今の社会を劇的に変えていくために、何か劇的な行動を起こす必要があるのではないか、という考えにとらわれるのも、理解できないわけではないのだ。

 本書『テロルの決算』がとり扱っているのは、昭和三十五年十月十二日に起こった、当時社会党の委員長だった浅沼稲次郎刺殺事件である。彼はその日、日比谷公会堂における三党首演説会での演説の最中に、十七歳の少年山口二矢に襲撃され、腹部を刺されて死亡したのだ。当時、警察は逮捕した山口二矢がかつて右翼系の大日本愛国党員であったとこから、少年を背後で操っていた誰かがいるに違いないと見ていたが、少年の供述からは「誰か」の名前が出てくることはなく、少年鑑別所で自殺をとげている。

 右翼団体に入るような少年に、ひとりで考え、ひとりで計画を練り、ひとりで決行しうる能力があるわけはない、という危険な断定があった。――(中略)――ひとりの悩める若者がその全存在を賭けて「右翼」の道を選びとり、テロリストたらんと欲することがある、などということを信じたくなかったのだ。

 山口二矢は、誰に頼まれたわけでもなく、自分の意思と責任でテロを決行した――本書の着眼点はそこからはじまっており、それゆえに本書の冒頭では、後に彼を右翼団体の間で神格化させることになるある「伝説」に視点を向けている。構えた短刀の刃の部分を刑事のひとりに握られ、それゆえに山口二矢はその場での自決を断念し、柄から手を離したという伝説――それは、はじめて人ひとりを殺害した直後の人間とは思えないような、冷静で落ち着きはらった判断力を思わせる逸話であるが、著者はこの二矢の「伝説」が事実であると見なしたうえで、事件の瞬間からその事件が起こる朝、そしてさらに二矢の過去という順序で時間を遡っていく。同時に著者の視点は、テロ行為によって命を落とすことになった政治家、浅沼稲次郎り過去についても目を向けていくことになる。

 ノンフィクションの醍醐味のひとつに、私たち読者にとってはたんなる記号でしかない人物を、いかに血のかよった、私たちの同じ人間として描くことができるか、というものがあるが、ひとつの事件における被害者と加害者について、同じくらいの興味をもって接しようとしている本書の姿勢は、山口二矢や浅沼稲次郎という人物をとらえなおすというよりも、むしろ昭和三十五年十月十二日という日時に、まるで運命に導かれるかのようにふたりの人生が交錯することになった、まさにその瞬間をとらえなおし、そこにどのような意味があったのかを考えようとしているかのようにも見える。

 じっさい、ふたりの過去を追うことで見えてくるのは、自立したテロリストとしての山口二矢が倒すべき敵、この国をより良くするために殺害すべきだと思い立った浅沼という人物もまた、戦前の無産運動時代から社会党の代表としての地位について後も、一貫して「今の日本をより良くしたい」という純朴なまでの信念をもって行動する人物であり、そこにはまったく共通ともいうべき理念が流れていた、ということである。

 時間の流れをテロの瞬間という一点から、いったんふたりの過去を追うという形で遡り、ふたたびテロの瞬間へと徐々に時間を加速させていく。そしてきたるべきその瞬間を、執拗なまでの濃密さで再現していく著者の筆致には、正直恐るべきものがあるとさえ言うことができる。そしてそのとき、読者にとってただの過去の出来事にすぎなかった殺傷事件は、似たような志をもちながらも、ついに加害者と被害者という立場でしか交わることのできなかったふたりの人間の、そのこの上ない皮肉と、そのような場所へふたりを導いていったさまざまな政治的背景という要素をともなって、私たちの眼前に広がっていくのである。

 だが、浅沼の真の悲劇とは、このような少年に命を狙われるということ自体にあるのではなく、彼の生涯で最も美しい自己表現の言葉が、ついに人びとの耳に届くことなく、すべてが政治的な言語に翻訳されてしまったことにあったのかもしれない。

 言うまでもなく、本書が描いているのはすでに過去の出来事であり、たんに事実だけをとらえるなら、ひとりの少年の愚かな行為が、ひとりの政治家の命を無遠慮に奪い去っただけの事件である。この事件によって、山口二矢が望むようなより良き国に日本が近づくはずもなく、そういう意味ではまったくもって無駄な犠牲が出ただけの事件であったと言わなければならない。だが、すべてが無駄な行為であったという事実が、彼らが心にいだいていた愚直なまでの信念を葬り去ってしまうというのであれば、それはあまりにも虚しいことだと、同時に言わなければならない。おそらく、著者がこのノンフィクションを書こうと決意した最大の理由は、そのあたりにあったに違いない。(2006.11.02)

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