【新潮社】
『天平の甍』

井上靖著 



 遣隋使、あるいは遣唐使という言葉について私が知っていることといえば、歴史の教科書に出てくる程度のことでしかないのだが、現在のように飛行機などという便利な乗り物があるわけでもなく、またしっかりとした世界地図や航海技術も確立していない、千年以上も過去の時代において、隣国とはいえ広大な海原を渡っていくという行為が、いかに多くの危険をともなうか、ということを想像するのは、それほど難しくはないだろう。一国の使者として、あるいは留学生、留学僧として、当時は文明の先進国であった中国へ赴くというのは非常な名誉であるが、必ずしも無事にたどりつくわけでもなく、またせっかくたどりついたとしても、今度は無事に日本へ帰ってこられる保証もない、見方によっては博打にも似た行為に、あえて臨もうとする遣隋使、遣唐使たちの底知れぬ原動力に思いをはせたとき、歴史というのは必ずしも偉人たちの手によってのみ成されるのではなく、ひとりの人間としての幸せを超えた何かに身を捧げた多くの名もなき人たちの意思によって紡がれていくという事実に思い至ることになる。

 本書『天平の甍』は、第九次遣唐使で留学僧として唐に渡ることになった普照をはじめとする多くの僧侶たちの運命を描いた物語であるのと同時に、日本にはじめて正式な戒律(僧侶が守るべきしきたり)をもたらし、それまで混乱の極みにあった仏教界にあらたな秩序を築くことになった唐の高僧、鑑真の物語でもある。時は八世紀、日本は律令国家としての道を踏み出したばかりであり、重税にあえぐ民のなかから「にわか僧侶」を名乗ることで納税を免れようとする者たちが続出していた。これは、僧侶職にある者に与えられる免税権のためであるが、肝心の僧侶を任命できるだけの徳を積んだ高僧が、日本にはまだ存在していないがための弊害であった。物語は、こうした当初の状況を説明しつつ、日本に戒師(僧侶職を任命する高僧)を招くという大任を負って、後に鑑真と出会い、彼と来日のための苦労を共にすることになる普照と栄叡が、渡唐を決意するところからはじまる。

 歴史とは、人類が生み出したさまざまなもの――たとえば文明や国家の栄枯盛衰の記録のことであるが、そうした記録に多分の想像力を加味して描かれる歴史小説の面白さは、たとえば佐藤賢一の『傭兵ピエール』に登場するジャンヌ・ダルクや、司馬遼太郎の『燃えよ剣』に登場する土方歳三のように、それまでたんなる歴史上の人物にすぎなかった者たちが、私たちと同じ血の通ったひとりの人間として息づきはじめることの醍醐味に尽きるのだが、本書については、どちらかといえば本来の歴史を小説という形式にあてはめる、という表現がふさわしいように思える。なぜなら、まるで歴史年表を追うかのように、正確な年代や日数とともに、小説の手法としてはよくある時間の遡行もなく流れていく展開や、多少しつこいとさえ思えるような船の積荷の羅列といった要素は、とくに歴史が持つ「記録性」というものを強調するものだからだ。

 だが、それはけっして人物が書けていない、ということではない。戒師を日本に招くことに強い意欲を燃やす、責任感の強い栄叡や、僧侶の勉学よりも、もっと本質的なものを求めて出奔を決意する戒融、僧侶としてよりも、普通の人間としてのささやかな幸福へと流れていく玄朗、さらには人生の大半を写経に費やした業行など、多くのタイプの僧侶が、それぞれ自分が正しいと信じるものに向かってひたむきに生きていく様子も、そうした者たちの影響を受けながら、当初は勉学にばかり打ち込んでいた普照が、徐々に歴史的大事業の実現に力を注いでいく過程も、あまりに人間臭いものだと言える。ただ、そこには登場人物たちの心情が可能なかぎり廃されており、あたかも読者が登場人物への感情移入を困難なものにしようという意図さえ垣間見えるのだが、そうすることによって、私たちは嵐の海上に浮かぶ船のように、圧倒的な時の流れのなかで翻弄されていく人間のちっぽけさというものをまざまざと感じることになる。
 そしてそれは、歴史上の人物としてかなり有名な鑑真でさえ例外ではない。鑑真が日本に渡ると決意してから、それを押しとどめようとする僧侶たちの妨害や、せっかく船を出しても天候や海賊の襲撃による幾度もの失敗といった、数々の苦難のはてに、ようやく日本にたどりつき、戒律を説くというストーリーは、劇的なものであるにもかかわらず、そのドラマ性やロマンチックな部分を大袈裟に強調することなく、あくまで歴史的な視点が貫かれているのだ。

 悠久の時の流れの前には、人間の一生などまさに刹那でしかない。著者はあるいは、危険な航海のはてに最後にはすべてが徒労に終わるかもしれない遣唐使というものに、あまりにちっぽけな人間の姿――その大部分は歴史に大きな影響をもたらすこともなく、ただ生まれては死んでいくことをひたすら繰り返していく人類の本質を見出したのではないだろうか。じっさい、その航海において何百人という貴重な人材が目的を果たすことなくその命を落とし、数多くの文化財産が海の藻屑と消えてしまったわけであるが、一見、登場人物たちを突き放すかのような本書の歴史的視点が、じつはそうした名もなき歴史の功労者をも平等に扱いたい、という願いから生まれたものであるとするなら、その試みは大いに成功していると言えるだろう。

 そう、著者にとっては、日本初の戒律僧となった鑑真も、自身の一生をささげた写経とともに最後には海の底に沈んでいった業行も、そして帰国を誰よりも望みながらも、けっきょくは異国の地で家庭を築くことになる玄朗も、すべて同じちっぽけな人間にすぎないのである。

――(中略)――きっと仏陀の教えというのは、もっと悠々とした大きなものだと思うな。黄河の流れにも、雲の流れにも、あの難民の流れにも、結びついたものだと思うな」

 人が人である以上、たんなる個人的な幸福を超えた、より大きな理想のためにその人生をかけようと決意する者たちは、昔から存在したし、今も存在するし、未来にもきっと現われてくることだろう。そして、その大部分は理想の実現なかばで力尽き、倒れていくことだろう。だが、彼等の行為はけっしてただの徒労に終わることはない。その意思は別の者に受け継がれ、どれだけ長い年月をかけようと、いつかは必ず思いは叶う――戒融のこの台詞のなかに、私はふと、ちっぽけな人間であることを超えた、大きな流れの一部を担うことへの、ある種の達観を垣間見たような気がする。(2001.12.13)

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