【福武書店(現ベネッセ)】
『彼岸先生』

島田雅彦著 



 物語の登場人物に対して、私はたいてい好意的である。大部分の作家は自分の書く物語の登場人物には深い思い入れを抱いているだろうし、登場人物が作者の側面なり一部なりを受け継ぐことから逃れられないものである以上、むしろ思い入れを抱かざるを得ない部分もある。どのような物語の登場人物にも、そういった作者の思い入れを感じることができるゆえに、私は登場人物に対して好意的なのである。
 だが、本書『彼岸先生』に関して言えば、私は登場人物の主格であろう彼岸先生に、どうしても好意的になることができない。その理由を考察する前に、本書で語られる彼岸先生がどんな人物なのかを検討せねばなるまい。

 物語の前半は、彼を「彼岸先生」と名づけた菊人の目を通して、彼岸先生の人となりが紹介されている。彼岸先生は小説家だ。週に三日小説を書き、残りの四日間を遊んで暮らす。それで生活していけるのだから、やはり才能があるのだろう。結婚して奥さんがいるにもかかわらず、常に誰かに恋をして、何人もの女をその毒舌で口説きおとしている。ようするに、女遊びが好きな中年男なのだ。しかも、そのくせ大人として成熟してもおらず、その言動には常に青臭さがただよってくる。たとえばこんな具合に。

――私はスポーツマンだったためしはない、ルール付きの暴力ってやつが馴染めなくてね。スポーツマンって殴り合った直後に平然と仲直りするだろう。やたらに感動したがるしな。(中略)スポーツは健康に悪い。君はスポーツマンなんだろう。あんな精神衛生に悪いことよくやるよな。

 彼岸先生は本当によく喋る。人生について、恋について、そして自分自身のことについて、訳知り顔で、なかば冗談や皮肉をこめて話す。まるで、そうすることで自分という人間を造りあげていくかのように。だが、自分のことを「一個の嘘なんだ」とうそぶき、フィクションを書くのではなく、「自分の生活をフィクションにしてしまいたい」と語る彼岸先生のことは、彼の思惑どおり靄がかかったふうで、いっこうによく見えてはこない。彼のことをもう少し理解するには、後半の彼の日記による告白を待たなければならない。
 だが、おそらくその日記や独白文を読んで彼岸先生のことが理解できるかと言えば、答えはNOだろう。わかるのは、下手に頭がいいだけに、始末におえない変人だ、ということだけである。事実、彼は精神錯乱をおこして自殺未遂を犯し、精神病院に収容されるが、しばらくして平然と退院してしまったりする。そう、彼岸先生はけっきょく最後まで「一個の嘘」でありつづけたのだ。彼の弟子を公言する菊人や、彼岸先生のファンである響子から、本当の自分の姿を隠しとおすには、自分を傷つけてでも精神錯乱を演じることで、二人から離れる必要があったのだろう。

 何か問題が生じたときに、それに正面からぶつかるのではなく、問題を巧みに迂回して根本的な解決を放棄してしまう――私が「彼岸先生」という人物を好きになれないのは、おそらくそういった彼の性格のいやらしさから派生していると思われる。もちろん、だからといってこの小説が駄作だというのではない。むしろ、そのようないやらしい人物を書ききったことに、私は敬意を表したい。小説のなかで善人を書くのはたやすいが、悪人や嫌な人間を書くのは容易なことではないからだ。
 だが、私はふと思う。このような登場人物に対して仮に著者が思い入れを抱いているとすれば、そこにはずいぶん屈折した感情があるような気がする。著者にとっては余計なお世話かもしれないが、今後、もう少し島田雅彦の著作を読んでみる必要があるだろう。(1998.12.26)

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