【東京創元社】
『とむらい機関車』

大阪圭吉著 



 以前、スーパーでAという商品を買ったつもりで、じつはよく似た色のBという商品を買っていたことに気づいたことがあったのだが、その商品を手にし、レジを通してカバンに入れるまで、私の脳内ではBはずっとAとして見えていたということになる。むろん、AとBは色はもちろん、値段も大きさも形もよく似ていたというのもあるのだが、人間の思い込みの強さというものは、ここまで事実を捻じ曲げるものなのかと妙な感慨をおぼえたものである。

 少し前のニュースで、犯罪予告や脅迫のメール、掲示板への書き込みを繰り返すという事件において、警察がIPアドレスを有力な証拠として四人の容疑者を検挙したものの、じつは遠隔操作ウィルスによる「成りすまし」であることが判明、誤認逮捕を謝罪するというものがあった。これもIPアドレスでネットにおける個人を特定できるという警察側の強い思い込みが原因であることは間違いないのだが、この場合、IPアドレスがネットにつながるパソコンや携帯電話を識別するための「住所」に相当するものだというまぎれもない事実が、警察側の思い込みをさらに強固なものにしていたというのがある。ここで見えてくるのは、人間の思い込みを補強するのは、狂気や殺意といった突発的な感情ではなく、むしろある事実をもとにして歪められた理屈――じつはぜんぜん論理的ではない理屈だということである。

 およそ、「自分は正しい」「自分は間違ってはいない」という思い込みの強い人ほどやっかいなものはないのだが、そこに変な屁理屈がくわわると、人はますますその思い込みを強くする。上述の例でいえば、IPアドレスは機器の特定はできるが、その機器を誰が使っているかまでは保証していないし、それはよくよく考えてみればすぐに気がつくことでもある。だが、強い思い込みに支配されている人に、その指摘はなかなか届かない。本書『とむらい機関車』は、表題作をふくむ推理短編集であり、形としてはコナン・ドイルのホームズ短編集を彷彿とさせるものがあるが、ある不可解な事件に遭遇したときに、いかに人がそうした思い込みに陥ってしまうのか、という点で、本書は突出したものがあると言うことができる。

「しかしそのもっともらしさは論理ではなくて、事実への解釈に過ぎませんよ。その解釈が如何にもっともらしい暗示に富んでいても、その為に、絶対に抜け出ることの出来ない坑内から抜け出した、と云う飛んでもない矛盾をそのまま受け入れることは出来ません」

(『坑鬼』より)

 戦前に活躍した推理作家のひとりである大阪圭吉の推理短編に、いくつかの掌編エッセイを加えた、大阪圭吉短編集と言ってもいい体裁の本書であるが、これらの短編のなかで登場人物たちが遭遇することになる事件は、その大半がいっけんすると奇妙極まりない、なんともおかしな状況を露呈しているものばかりである。その最たるものが表題作の『とむらい機関車』で、これは一週間に一度、同じ深夜の時刻、同じカーブの地点できまって機関車が豚を轢き殺すという災難が三度続けて起こるという怪事件をあつかったものだ。

 偶然で片づけるにはあまりにも作為的なものを感じさせるその事故が、はたして本当に何者かの仕業によるものなのか、という点が焦点となり、その真相を明らかにしていく展開へとつながっていくのだが、この事件については、作中の登場人物はもちろんのこと、読者自身も、誰が、何の目的でそんなことをしでかしているのか皆目見当がつかないというパターンに属しており、他には同じく機関車をモチーフに、その車両から投げ出されたかのように発見されたふたつの他殺死体の謎を追う『気狂い機関車』や、いっけんするとデパートの屋上から飛び降り自殺したように見えながら、その体のあちこちに残っている擦過傷の原因が最大の謎となる『デパートの絞刑吏』といった短編がそれに該当する。

 そしてもうひとつのパターンは、前者と同じく不可解な事件が発生するのだが、登場人物たちがその不可解さになんらかの説明をつけようとするあまり、間違った理屈づけをしてしまうというものである。たとえば上記引用の短編『坑鬼』では、ある採炭場の一坑で発生した火災の延焼を防ぐため、ひとりの坑夫もろともその入り口を塗り固めて鎮火したものの、その後、その塗り固め作業にたずさわった作業員ふたりが立て続けに殺されるという事件が起こり、不審に思った彼らが塗り固めた入り口を再び開けてみたところ、閉じ込められていたはずの男の死体がどこにも見つからない。そして、これらの事実から登場人物たちが到ったのが、なんらかの方法で坑内から抜け出したその坑夫が、自分を見殺しにしようとした者たちに復讐を果たしているのだ、という解釈である。

 いずれのパターンにおいても、最後には探偵役となる人物――もっとも、その大半が青山喬介という青年が担うことになるのだが――が、すぐれた洞察力と緻密な観察によって新たな事実を見つけ、事の真相を明らかにしていくわけだが、こと後者のパターンについては、もし探偵役の人物が謎解きをしなければ、人々の間違った思い込みによって真相が遠ざかるどころか、無実の人間を陥れることになりかねない事態である。これは、ある少年が目撃した犯人像と、その犯人の逃走経路から、近くの屋敷に住む双子の青年が容疑者にされてしまう『石堀幽霊』や、被告人やその関係者とはなんのつながりもない赤の他人ということで、いくつかの刑事裁判の証人として証言し、その判決を大きく左右していた女のとんでもない秘密をあきらかにする『あやつり裁判』などが該当するのだが、そこには私たち読者を謎の真相から目をそらさせようという書き手の意図とはべつに、その犯罪をくわだてた人間の狡猾さ――人間の思い込みの強さを逆に利用して、犯罪を成立させつつ警察の追及も逃れようという狡さが垣間見えてくる。

 表題作に登場する蒸気機関車をはじめ、人の手によって掘られた広大な採炭場や、『カンカン虫殺人事件』に出てくる造船工場の乾船渠、あるいは『雪解』に登場する砂金を掘り集めるためのバケット式浚渫船など、巨大な工場施設や機械のたぐいが話に絡んでくるのも本書の特長のひとつだが、ときに事件の真相は、そうした機械設備に対する人間のひ弱さ、人間が発明し、使役するための機械に逆に翻弄されてしまう人々の姿をさらけだすことがある。昭和一桁の時代に書かれたこれらの推理短編が、日本の近代化を目指しながらも、しだいにその近代化に振りまわされてしまう人々に対する皮肉のようにも受け取れるのは、うがった見方だろうか。

 何か新しいものが急速に広まり、発展していくようなとき、きまってその裏で数々の怪奇や妙な噂、都市伝説といったものが跋扈するものであるが、それらのものが、急激な世のなかの変化についていけなくなった人々の無意識が、自分たちに納得のいく解釈を求めた結果なのだと考えたとき、あくまで発見される事実だけをもとに、論理的な解釈をもって謎を解決していくという推理小説というジャンルは、あるいはそうした世のなかの求めに応じて受け入れられていったのではないか、と本書を読んでいるとふと愚考したりする。そんな論理をとことん突きつめていくことを主眼とした本書は、きっと古臭さだけではない何かを読む人に感じさせてくれるに違いない。(2012.10.27)

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