【講談社】
『エナメルを塗った魂の比重』
−鏡稜子ときせかえ密室−

佐藤友哉著 



 北森鴻の『共犯マジック』には、「フォーチュンブック」という、人の不幸だけを予言する本が登場するのだが、この作品のなかで、未来を予知する、という行為自身のパラドックスについて言及していたのを覚えている。たとえば、ある予言者がある人に振りかかる不幸を予知し、その内容を彼に告げたとする。彼は、はたしてその予言された未来を変えることができるのだろうか。もし、変えられるのだとすれば――彼がそのことによって不幸を回避することができたとすれば、予言者の予言は、はたして的中したことになるのか。もし、変えられないのだとすれば――状況はもっと悪いだろう。なぜならその事実は、けっして変えられない未来をあらかじめ予言したとして、それがいったい何の役に立つというのか、という存在意義の喪失を意味するからだ。

 私はもちろんのこと未来を予言できるわけではないし、また未来の予知ができるなどと信じているわけでもないのだが、仮に「予言はかならず成就される」ものだとしてこのパラドックスと向き合ったとき、もしその予言を変えることができたとするなら、論理的結論として、その予言は予言ではなかった、ということになる。ただのインチキか、あるいはその意味を取り違えた、と考えるのが妥当だろう。

 物事には因果というものがある。ある出来事が発生するのは、そこにいたるさまざまな要因が複雑に絡み合った結果として起こったものである、という考えだ。予言というものが、そうした複雑な因果をすべてすっ飛ばして、単純にその結果(あるいはその一部)のイメージだけを見せるものであるとするなら、問題となってくるのは予言者の能力そのもの――予言にいたる因果をどの程度見通すことができるのか、にあると言える。予言はけっして変えられない。なぜなら、予言者自身も見ることのできなかった、その不幸が起こるまでの過程もまた、未来を予言した時点で確定されてしまうからである。つまり、予言者が予言をすること、その予言を彼に告げること、そして彼がその不幸を回避すべくさまざまなあがきをすることも、すべて「予言」の範囲内になってしまうからだ。

 本書『エナメルを塗った魂の比重』には、前作『フリッカー式』にも登場した鏡稜子が出てくる。百発百中の予言能力をもつ、愛すべき鏡一族の次女で、前作でも表面上の物語の裏でいろいろと動いていた彼女であるが、本書の物語においても、基本的にその立ち位置は変わらない。人肉しか食べられない少女、コスプレをすることで現実の自分から抜け出そうとする少女、学校内でひどいいじめを受けている少女、そしてもうひとりの自分に襲われたという少女――いくつもの、いっけんすると何の関連もなさそうな物語のなかに、彼女は直接的・間接的なかかわりをもちながら動いていくが、それぞれの物語にはあくまで中心になって語る人物がいるために、彼女の行動はたんなる脇役以上の意味をもつことはない。

 ここでもっとも重要となってくるのは、鏡稜子が「予言者」という位置を与えられている、という点である。すでに定められた未来がある、という前提をもとに行動する彼女の存在は、未来の見えない人間には当然のことながら奇異なものとして映る。こうした、登場人物の視点が変わることによって、それまで流れていた物語の本質がガラリと変貌をとげるという手法、とくにある物語では脇役にすぎなかった人物が、じつはより大きな枠における主要な登場人物となっている、という主従関係の逆転は、前作でもおなじみのものであるが、今回は鏡稜子のような「予言者」的な役割をもつ登場人物が、彼女以外に何人も存在していて、それらがなんらかの干渉をおよぼしている、という意味で、物語が何重にも積み上げられていくような構造になっている。

 そういう意味では、著者の作品を読み解くのに、その表層をさらうのはまったくの無意味だ。たとえば、いかにもミステリー的な展開を思わせる密室殺人。本書のなかでも、図工室でクラスメイトのひとりが殺されるという密室殺人事件がおこるが、物語の中心がそこにないがゆえに、そのトリックをあばいたり、犯人を見つけたりすること自体に何の意味もない。同じように人肉食らいの山本砂絵の、その奇妙な性質も、ドッペルゲンガーともいうべきもうひとりの自分の正体やその目的、そしてクラスのいじめに干渉をはじめた美しき転校生の秘密といったものも、この物語のなかではすべてが瑣末なこととして片づけられてしまう。本書のなかで重要なのは、それが誰の介入によって生じた物語であるのか、というその一点に尽きる。すべてを見通したうえで、すべてを計算して行動している真の「予言者」は誰なのか――表層の物語がいかにリアリティーのない、無意味なものであっても、あらかじめ定められた未来にいたる、並の予言者にも見通すことのできないその過程が、たしかな論理によってつながっていくのであれば、その一点をもって本書はたしかにミステリーだと言うことができる。

 上述したとおり、予言とはかならず成就されるたぐいのものだ。そして、そこにいっさいの例外も存在しえないとすれば、論理的結論として予言という行為そのものが意味を失う、ということになる。前作にひきつづき、本作においても、すべてを裏であやつる秘密組織らしきものの存在が見え隠れしているが、彼らはそうした予言のパラドックスについて、どれだけ意識しているのだろうか。もし、著者がそのことを意識していて、なお本書のような物語を書いているのだとすれば、なぜ著者自身が登場人物の姿を借りて、本書の世界を「馬鹿げた世界」と言い放つのか、少しは納得できるような気がする。(2005.10.01)

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