【集英社】
『東京バンドワゴン』

小路幸也著 



 私はこれまでの人生のなかで、教師や講師として誰かを教え指導する立場になったことも、また父親として自分の子どもを守り育てていく立場になったこともない人間であるが、この「教える」「指導する」「守る」「育てる」という行為が、人間関係においてことさら一方通行的な意味合いを帯びるものであり、そうした行為だけでは、師弟や親子といった関係を維持していくのは難しいだろうと想像することくらいはできる。それまで意識してはこなかったが、私が大学生だった頃に、いろいろとアルバイトをやってきたなかで、それなりにいい給料となる家庭教師だけは避けてきたという経緯があるのだが、それもその一方通行的な性質が自分に合わないという思いがあったのかもしれない。

 人はけっしてひとりでは生きていけないし、それゆえに私たちはさまざまな人間関係を築き、そのなかで自分の役割というものを模索していく。そして、その関係というのはけっして一方通行的なものではなく、時と場合によって助けたり助けられたりする相互扶助的なものであるし、またそうあるべきでもある。誰かを教えることは、同時にその誰かから教えられることであり、誰かを育てることは、同時に自分自身の成長にもつながっていく――そうした人間関係の基本が欠如したまま、個性ばかりが重視されていけば、一方通行的な行為ばかりが膨らんで、そのうち相手が自分と同じ人間であるという意識さえも希薄になっていくことにもなりかねない。昨今、しばしば世間をにぎわせる殺人事件の異常性、人を人とも思わないような残忍な手口は、その犯人が悪人だからということではなく、むしろ人と人としての関係欠如によるものだとも言える。

「にんげん、まちがうことありますよね。ゆるせないことあります。でも、それを、ゆるしてあげられるのは、ゆるせなくても、そばにいてあげられるのは、やっぱりおやことか、かぞくしかいないとおもうんです」

 本書『東京バンドワゴン』は、東京下町に代々店を構える古本屋を舞台に繰り広げられる、いわゆる「日常の謎」をめぐる連作ミステリーであるが、ミステリーにおいてひとつの核をなす「探偵」の存在が定まっておらず、その役割もかぎりなく希薄であることが、本書の大きな特長のひとつである。

 もうすぐ八十という高齢でありながら、明治からつづく古本屋「東京バンドワゴン」三代目店主として現役バリバリの堀田勘一、そのひとり息子で「伝説のロッカー」などと呼ばれてはいるものの、六十になるのにいまだフラフラと落ち着くことのない我南人、画家で未婚の母でもある長女の藍子、元学者で妙に霊感の強いところのある長男の紺、女性とのトラブルがたえない次男の青や、紺の妻で才色兼備な亜美、さらにその娘や息子、飼い猫や飼い犬まで合わせると、四世代にもおよぶ大家族で構成される堀田家であるが、それぞれがもつ個性やインパクトの強さもさることながら、堀田家に毎回のように巻き起こる騒動に対して、いっけんそれぞれがバラバラに反応しているようでありながら、そのじつ「堀田家」というひとつのくくりで見たときに、じつはそれぞれがそれぞれの成すべきことをきちんと分担して行動していて、その結果事件の謎を解くだけでなく、そのフォローもふくめて事件を結果オーライへと導いていくという展開を見せる。

 堀田家の人々は、それぞれ個人に目を向けたとき、けっしてできた人間というわけではないし、またそれぞれが軽くはない問題をかかえている。勘一は典型的な江戸っ子気質で、融通の利かない頑固者であるし、我南人は言ってみれば「大きな子ども」だ。亜美にしても、両親の猛反対をふりきって嫁に来たという経緯ゆえに断絶状態がつづいているし、青や藍子の子どもの花陽については、父親や母親がわかっていない。じつのところ、堀田家の家族構成を見たときに、現状きちんと両親がそろっているのは紺と亜美の息子である研人だけであり、あとはいずれも家にいなかったり、死別してしまっていたりする。そもそも、語り手であり勘一の妻でもある堀田サチにしてからが、一昨年に七十六でこの世を去ったものの、幽霊として家に残っている、という設定なのだ。

 そういう意味で、堀田家の家族は、それぞれが何か欠けた状態でありながら、それぞれが「東京バンドワゴン」というひとつの家に寄り添うことによって、それぞれの欠けた部分を補い合うようにして暮らしていると言うことができる。核家族があたりまえのようになっている現代において、たとえばシングルマザーでありつづけたり、愛人の子どもを引きとったりといったことは、けっして軽々しくできるわけではない。だが、堀田家のようにとりあえず人手というものがあり、その人たちの助けが得られるのであれば、その負担はずっと軽いものとなる。堀田家の大人たちの大半が、いずれも元学者であったり、元スチュワーデスであったりするものの、今は自営業に近い形で生計を立てているという設定は、そうした人と人との相互扶助の関係を重要視しているからに他ならない。

 古本屋の稼業だけでは生活が苦しいということで、同じ家の半分を喫茶店にするという柔軟さが象徴するように、時と場合によってはどんな形にでもなって、どんな人でもあたたかく包み込んでしまうような雰囲気がこの大家族のなかにはある。そしてその雰囲気は、堀田家のなかだけにとどまることなく、その近所や、さらには店にやってくる常連たちをも巻き込んでいくだけの力がある。そこにあるのは、かつて向田邦子が脚本を書いた「寺内貫太郎一家」の雰囲気――大家族ゆえに問題が絶えないものの、最後にはすべてが丸くおさまってしまうという懐かしいホームドラマの世界だ。そこでは人々は頑固で我がままではあるが、それゆえに今ではすっかり忘れ去られようとしている「人情」が生き残る余地もある。半端なままでも、ことあるごとに愛を叫ぶ甘ちゃんであっても許される自由さがあるのだ。そんなある種のつながりの力を、ミステリーの謎を解く力として物語を書いてしまったことにこそ、本書の存在価値がある。

 個人があくまで個人の意思をもち、しっかりとした主張ができるというのは大切なことだ。だがそれは、他人もまた自分と同じ個性と主張をもつことが前提であって、それを無視して自己主張することが個性というわけではなく、また他者の自由を認めないところに真の自由など存続できない。人と人との関係や、その規範となるべき倫理があらためて問われている現代において、その核をもっとも身近なところにある家族というものに求めた本書にとって、謎を解く、事件を解決するというのは、ともすると孤独のなかで断ち切られてしまいがちな人間関係を、ふたたび繋いでいくことでもある。だからこそ、その結果オーライはベタでありながら、どこか心にほっこりしたものを与えてくれるのである。(2008.04.25)

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