【角川書店】
『ふりだしに戻る』

ジャック・フィニイ著 

背景色設定:

 人間がこの世に生を受けるときに、選ぶことのできないものが三つある。ひとつは自分の体、ひとつは両親、そしてもうひとつが生まれる時代である。人間は生まれる時代を選ぶことはできない。だが、生まれ落ちた時代に関係なく、人が常に「今」という時間の連続を生きなければならない、というのは共通の認識であろう。未来は常に予想のできない不透明な可能性であり、過去は常に固定されてしまった事実である。そして、過去も未来も、現在という時を生きる私たちにとっては切り離された時間であり、想像力をもってしかその時間とつながることはできないものだ。

 だが、人間が神から授かった想像力は、しばしばその切り離された時間へと私たちの心を導いていく。たとえば、六十年代の学生闘争の時代――私がまだ生まれてもいない頃に全国の大学で活発だった、劇的とさえ言っていいほど過激な運動を経験したことのある、年配の方の「思い出」を聞くたびに、ほんの一時期ではあっても、校舎内にバリケードを築き、機動隊と衝突するだけのエネルギーをぶつけて生きることのできた彼らの時代を、うらやましく思っている自分の心に気づいてしまう。それはあるいは、どんなセンセーショナルな出来事もたちまち過去の遺物と成り果て、どんなに努力しても現状は変えられないという、諦念にも似た個人主義が横行する、便利ではあるが生きる力そのものが失われつつある私たちの認識する「現在」への不満と、けっして無関係ではありえない。

 本書『ふりだしに戻る』に登場するサイモン・モーリーの場合はどうだろうか。彼ははたして、自分が生まれ育った時代が、まぎれもなく自分の属する世界であると認識していたのだろうか。その点に関しては、読者それぞれの判断にゆだねるしかないのだが、ひとつだけ明らかだったのは、サイにとっての過去とは、けっして過ぎ去ってしまった時間という事実だけを指すものではなかった、ということである。とくに、一八八二年のニューヨークについては。

 筒井康隆の『時をかける少女』、半村良の『戦国自衛隊』、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』、あるいは映画『バック・トゥ・ザ・ヒューチャー』など、タイムスリップ――時間の壁を越えて過去や未来へと行き来するという物語は、おもにSFの分野では、それこそ枚挙にいとまがないほど多くの作品が生まれている。広告会社に勤め、来る日も来る日もPR商品のデッサンを描きつづけるという仕事にうんざりしていたサイモンのところにやってきた、ひとりの男――現代人を過去へと送りこむ、という秘密プロジェクトの一員だと名乗るルーベンス・プライアンの誘いを受けて過去へと旅立つ、というストーリーを考えたとき、もはやネタとしては使い古されたという印象さえ否めないタイムスリップ・ストーリーを、読者にどう読ませるか、というのは非常に重要な問題となってくるわけであるが、こと本書に関するかぎり、昭和四十八年刊行という古さをまったく感じさせないアイディアに、ストーリーテリングの魅力も含め、申し分のない作品として仕上がっていると言うことができるだろう。

 普段、私たちを「現在」という時間に縛りつけずにはいられない、無数の現実認識の糸を、外部と内部の両方から解放するという方法――昔から変化していない場所で、自己催眠による思いこみの力を使うことで過去へと跳ぶ、という理論は、ちょっと考えるとなんとも荒唐無稽なものであることは疑いの余地のない事実であるが、著者はその荒唐無稽なアイディアを、徹底的な描写の力でリアリティをもたせることに成功した。物語の三分の一は、サイモンをスカウトした秘密プロジェクトの存在を肉付けするために存在しているといっていいほどだ。運送会社に偽装されたアジトの存在、サイモンを試すための周到なテスト、そして実際に過去へ行くための厳しい――ある意味では滑稽な――訓練の数々をえんえんと描きつづける著者の傾向は、物語の中盤、サイモンがタイムスリップに成功してから一気に爆発することになる。

 日差しをさえぎる高層ビル群のまったくない空の下で農業が営まれ、ブロードウェイには自動車ではなく馬車がひしめき、ガス灯が夜をささやかな光で照らし、男はシルクハットとステッキ、口には髭をたくわえ、女はロングスカート、髪をアップにまとめてボンネットで覆うという服装で歩き回っている――まるで、読者自身を本気で過去へと送り出そうとしているかのような、徹底した描写によって浮かび上がってくる、きわめてリアルな一八八二年のニューヨークは、同時に私たち現代人が属している、現在のニューヨークの姿をも浮きぼりにせずにはいられない。そこにあるのは、けっして現代の世界を嘆いたり、過去の世界を礼賛したりするような思想ではない。それは例えば、私たち日本人が江戸時代という、何もかもが今とは異なっていた閉鎖社会が、かつては間違いなく存在していたのだ、と考えたときに引き起こされるある種の興奮――センス・オブ・ワンダーの感覚であり、そこから遠く隔たってしまった、私たちの属する現代の再考の機会なのである。

 それは衣服や化粧や、ヘアスタイルの問題ではないと思う。現代人の顔はもっとずっとたがいに似通っていて、もっとずっと生気が足りない。八〇年代の街路でもぼくは、今日よく見かけるような人間のみじめさも見たし、堕落も絶望も貪欲も見た。――(中略)――だが、それらと同時に、過ぎ去った一八八二年のニューヨークの街頭には、一種の興奮もあったのだ。

 サイモンのガールフレンドが持っていた、一枚の手紙――彼女の養父を自殺に追い込み、「世界の破滅」をまねいたと書かれている手紙の謎を解明するという、ミステリーの要素も盛りこんだ本書ではあるが、情景描写のほかにもうひとつ特長を挙げるとするなら、「過去の改変」に対するこだわりであろう。じつは、これこそが本書のメインテーマではないかとさえ思われるのだが、けっしてありえない歴史の「もし」を現実に引き起こすことが可能になったときに、はたしてプロジェクトの面々がどのような行動をとり、それに対してサイモンがどんな反応を示すのか、という点に着目して本書を読み解くと、私たちは自分の属する世界と同時に、人間という、すべての小説の永遠のテーマにも目を向けなければならなくなることに気づくだろう。そして、本書のタイトルがなぜ『ふりだしに戻る』となったのか、ということも。

 過去がたんに定まった事実から、まぎれもなく生きて呼吸しているリアルへと変化したとき、少なくともその人にとっての過去は、もはや過去ではなく現実の一部なのだと言える。あるいは本書のもっとも伝えたかったのは、過去や未来を「今」の問題としてタイムスリップさせる方法だったのではないだろうか。(2001.04.24)

ホームへ