【新潮社】
『宿命』
−「よど号」亡命者たちの秘密工作−

高沢皓司著 

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 北朝鮮の正式名称は、朝鮮民主主義人民共和国というのだが、この正式名称を耳にするたびに、いつもちょっとした違和感を覚える私がいる。「近くて遠い国」という、誰かが用いた言い回しがまさにぴったり来る北朝鮮という国について、おそらく大半の人々が良い印象などいだいていないだろうことは、日本人拉致問題や核開発疑惑をふくめたさまざまな国際問題で、北朝鮮がしめすおよそ誠実とは言いがたい対応を見ていても容易に想像がつくことであるが、そもそも共産圏に属する国であるはずの北朝鮮が、その正式名称のなかに「民主主義」という言葉を謳っていること自体、不思議といえば不思議なことであり、また大きな謎でもある。

「民主主義」とは、文字どおり国民が主であることによって成立する主義であり、そこには自由と平等の原則が貫かれていなければならない。だが、そうした「民主主義」とはもっとも遠いところにある国が、他ならぬ北朝鮮である。この国にとっての「民主主義」とは、いったい何なのか。私たちが当然のものとして受け入れている「民主主義」の指し示す内容とは、どれほどの食い違いがあるのか――私がその正式名称に対していだく違和感は、そうした部分から生じるものでもあるのだ。

 本書『宿命』は、そのサブタイトルに『「よど号」亡命者たちの秘密工作』とあるとおり、1970年に起こった過激派学生らによるハイジャック事件のこと、およびそれ以降のハイジャック犯たちの姿を追ったドキュメンタリーである。この「よど号」ハイジャック事件について、当時まだ生まれてさえいなかった私にはその概要程度の知識しか持ちあわせていないのだが、東大闘争が安田講堂攻防戦で敗北し、学園闘争そのものが終焉に向かいつつあった時期に、武装蜂起といった過激な思想を中心に結成された「赤軍」メンバー九人によって、1970年3月31日に引き起こされたハイジャック事件のことである。事件そのものは、福岡空港、韓国の金浦空港における日本政府、韓国政府、アメリカ政府の説得工作もむなしく、ハイジャック犯たちは当初の目的どおり、北朝鮮への亡命をはたすことになる。幸いなことに機長以下、乗客は全員無事で、ひとりの犠牲者も出すことなく、少なくとも表面上においては事件は終結したわけであるが、「世界同時革命」という壮大な目的のために、なお政府当局と戦うことに情熱を傾けてきた当時の赤軍メンバーに、多少なりとも共感するところのあったであろう著者にとって重要なのは、ハイジャック事件そのものの経緯ではなく、その後の彼らの動きである。本書によれば、ハイジャック犯たちの北朝鮮への亡命はあくまで一時的なものであり、いずれ日本に帰国して活動を再開することを予定していたという。だが、私たちも承知のとおり、彼らは今もなお北朝鮮からの帰国を実現できずにいる。そして、北朝鮮に亡命をはたして以降の彼らの足どりは、まったくと言っていいほど伝わってこない。そういう意味では、本書のメインは闇に包まれたハイジャック犯たちのその後の動きに光をあてることにこそあり、事件そのものは、むしろはじまりにすぎないというスタンスをとっている。

「よど号」ハイジャック犯たちのその後の足どりを追うという、けっして短くはないドキュメンタリーを読んでいて――そして読み終えたあとも私が感じているのは、目を背けたくなるような陰惨な事実に対するなんとも言いようのない気味の悪さであり、また人間の心の奥にある、底の知れない恐ろしさでもある。なぜなら、著者が直接あるいは間接的に入手した数々の資料から浮かび上がってきたのは、かつての「赤軍」が抱いていた理想とはあまりにかけ離れてしまった、歪んだいびつなハイジャック犯たちの思想の変貌であり、その裏に見え隠れする北朝鮮の意図、そしてその中心にある金日成崇拝を基本とする「チュチェ思想」の、まるでカルト教団を思わせるような異常な思想統制の現実であるからである。そう、「よど号」ハイジャック犯の足どりを追うという目的は、奇しくも北朝鮮という「近くて遠い国」が、現実にはどのような国であるのかをさらけ出す結果となっているのだ。

 金日成思想の「国家有機体論」(社会政治的生命体論)は、考える頭脳は“偉大なる首領”ただひとりでよく、「人民」は手足であり、血液であり、細胞であることを教えている。このことから考えれば「主体(チュチェ)思想」とは、“金日成の思想”の別名であり、一種の固有名詞と考えれば分かりやすいだろう。

 ハイジャック決行前に「俺が金日成をオルグする」とまでうそぶいていたリーダー田宮高麿をはじめとする、筋金入りの「赤軍」だったはずのハイジャック犯たち――むろん、彼らが行なったハイジャックという行為は許されるものではないが、彼らが国を相手どってまんまとハイジャックを成功させてしまうほどの強靭な精神をもっていた、ということだけはたしかなことだろう。だが本書を読み進めていくと、ハイジャックという行為そのものが小さく霞んでしまいそうになるほどの、まさに驚愕としか言いようのない事実が次々と明らかにされていく。彼らが北朝鮮に渡ったのち、いかにして「チュチェ思想」に懐柔され、最終的には心の底から「チュチェ思想」に染まりきった戦士として洗脳されていったか、そして北朝鮮によって作り上げられた彼らが、金日成の思想に忠実な人形として、海外でどのような非人道的活動に取り組んできたか、そのとき、彼らのなかでどのような論理がはたらいていたか――著者は手に入れられるだけのあらゆる資料、そして当人とのインタビューなどの情報をあらゆる角度から検討することで、そのほんのわずかな齟齬を見つけ出し、そこからいくつもの虚構のベールをはいでいくようにして、信じられる唯一の事実へと読者を導いていく。

 北朝鮮に関する知識の豊富さ、とくに「チュチェ思想」の本質についての理解度の高さはもちろんのことであるが、まるで自分が今、その事件を目の前にしているかのような、精緻な表現力と息づまるような緊迫感は、けっして知識だけでは書くことのできない生々しさをともなっており、まさに「よど号」事件の真相としては、決定版ともいうべき完成度を誇るドキュメンタリーである。そして、とかく虚言を弄し、嘘をつき、事実を捻じ曲げることさえ正当化してしまう「よど号」ハイジャック犯、およびその妻たちの、巧妙で、ときに人の心さえ踏みにじっていくような分厚い虚構を崩していくその過程は、まるでミステリーの謎解きをしていくかのような興奮さえ覚えるものである。そこから見えてくるのは、まるで蟻地獄のようにどんどん深みにはまって、まったく身動きがとれなくってしまうハイジャック犯たちのかかえこんだ狂気であり、そんな彼らを道具のごとく使う北朝鮮という国のかかえた狂気でもある。

 金日成主義では、事実がどうであった、ということよりも、事実もこうあるべきだ、こうあらねばならない、ということの方が「真実」なのである。――(中略)――なぜなら、実際に経験した事実はどうあれ、それは本来こうあるべき事実の、ちょっとした手違い、間違いに過ぎないからである。

 本書のなかに書かれているのは、人間というものがどれだけ変わってしまうものであるのか、という恐るべき例であり、それは私たちの常識に大きな一撃をくわえるだけの衝撃をともなうものでもある。著者は本書のなかで、北朝鮮へと飛び立ったハイジャック犯たちを、今もなお漆黒の闇のなかを航路図もないまま迷走しつづけている飛行機の乗客としてとらえている。それは、彼らの足どりを表現するのにこれ以上はないというほどの比喩であるが、私たちに見えるのは、ときたま起こる稲光によって一瞬だけ映し出される彼らの姿だけであり、本書はその闇の一部分を切り開き、ひとつの結論を出すことになった。まさに「事実は小説よりも奇なり」という言葉がふさわしい内容であることは間違いないのだが、私たちがもっとも戦慄すべきなのは、「よど号」ハイジャック犯たちの、どこに行き着くのかもわからない迷走が、今もなおつづいていること、彼らにとってのハイジャック事件が、四半世紀をすぎた今になっても、まだ終結していない、という事実なのだ。(2006.01.31)

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