【新潮社】
『食卓のない家』

円地文子著 



 たとえば、私の両親は二十代のけっこう早い時期で結婚し、兄と私のふたりの子どもをもうけ、どちらもちゃんと独立した大人として育てあげることができた。父はサラリーマンとして定年までひとつの会社で勤め上げてきたし、母も結婚後はいろいろなパートを勤めたりしたが、基本的には専業主婦として一家を支えてきた。そして、それまでの生活のなかでそれなりにいろいろな事件はあったものの、誰かが死んだり別れたり、あるいは大きな犯罪や事故に巻き込まれたりするようなこともなく今にいたっている、という意味で、両親が築いてきた家庭はまさに典型的な成功モデルだと言うことができるだろう。だが、それはあくまで結果としてそうなっただけであって、世の中のすべての家庭が、私の両親のような家庭の形を維持できるというわけではない。

 結婚することなく生涯をおくる者、結婚したものの、何らかの理由で離婚してしまう家庭、はじめから片親しかいない家庭、逆に子どものいない家庭や、血のつながりはないが、それでもひとつの家族として立派に機能している家庭――世の中にはじつにさまざまな家族の形があって、そのいずれも、両親がそろっていて子どももいる、という典型的な家族の形とは異なったものである。むろん、だからといって必ずしもすべての家庭がどこか歪んでいる、と考えるのはただの偏見でしかないのだが、たとえば三十を過ぎてなお女っ気もなく、あいかわらずの独身生活をつづけている私が、ときに自分はいったい何をやっているんだろう、と今のシングルの状態に漠然とした不安をいだくことがあるように、世の中には今もなお、家族とはこうあるべき、といったものをはじめとする人生の理想の生き方みたいなものが根強く残っていて、そのマジョリティの潮流からはずれて生きていくことに余計なエネルギーが必要だったり、しなくてもいい苦労をしなければならなかったりする場合があるのもたしかである。

 本書『食卓のない家』は、そのタイトルが暗示しているように、とある家族の崩壊していく様子を書いた作品である。大手電子機器メーカーの研究所に勤めている鬼童子信之は、妻と三人の子どもを支える家長として、それまで平凡ではあるかもしれないが、それなりに幸せな家庭の形を維持してきた。だが、三人の子どものうち、とくに秀才だった長男の乙彦が、激しくなっていく学園闘争のなかでもとくに過激な学生グループのリーダー格となっていき、八ヶ岳の山荘で人質をとって立て籠もったあげく警察に逮捕されるという事件を引き起こしてから、鬼童子家は世間やマスコミから激しい非難にさらされることになった。それは、乙彦たちのグループが内ゲバから生じた凄惨なリンチによって、多くの殺人を犯してきたという事実もさることながら、その過激派グループの親たちが、勤め先の会社を辞職したり、あるいは自殺したりといった責任のとりかたをしているなか、信之自身の、成人に達した子どもの起こした行動に家族が責任を持つことはない、という法律が認めている事実をあくまで貫き、乙彦に対していっさいのかかわりを拒否し、また謝罪などの行動もいっさい行なわない、という態度を崩そうとしなかったことへの非難も含まれていた……。

 すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、本書の舞台となっているのは、現実においても学園闘争の激しかった1970年代であり、乙彦が引き起こした事件の土台となっているのは、1972年に世間をおおいに騒がせた連合赤軍による浅間山荘立てこもり事件である。親が子どもの犯した罪に対して、どれだけ責任を負うべきなのか、という問題は、ますます低年齢化、過激化が進む少年犯罪にまつわる問題もふくめて、今もなお充分通用するテーマのひとつであることはたしかだが、私が本書を読み終えて感じずにはいられなかったやるせない気分は、けっきょくのところ、鬼童子家が一家離散ともいうべき解体へと突き進んでしまうという、あまりにも救いの少ない物語であるところから来ている。

 本書を読んで、おそらく多くの読者が「家族とは何か」という命題に直面することになるだろうことは、充分予想することができる。そのさいに、私たち読者がその作品のなかで期待するのが、いわゆる「家族の絆」の確認、というものだ。私たちがふだん、そこにあるのがあたりまえだと思い込んでいる家族の形――家族を構成する個人が、家族というものにどのような思いをもっているかという点については、たとえば角田光代の『空中庭園』のように、それぞれがまったくバラバラであってもおかしくはないのが現実であるが、それでもなお、今ある家庭そのものが崩壊するかもしれない大きな問題に直面したときに、それぞれの思惑はともかく、家族全員が共通の問題意識のもとに協力しあい、助け合うものだろう、いやそうあってほしいという願望が、少なからずあることを認めなければならない。そしてたしかに、それまでバラバラだった家族が、お互いが家族としていっしょに生活していくことの大切さを実感する、というパターンは、物語の形としては感動的なものがある。

 だが、こと本書に関しては、そうしたカタルシス的な要素はほとんどないと言っていい。家長である信之は、自分がそれまで正しいと信じ、なかば自分という個性を定義するまでになっている信条にあくまで忠実であろうとするがゆえに、逮捕された息子の乙彦を家族の一員である以前にひとつの独立した個人としてあつかう、という姿勢を貫く。それは、たしかに法律でも認められていることであり、また成人した男女を一人前の大人とみなすという意味では、徹底した態度ではあるが、それは同時に、私たちが期待する日本的「家族の絆」とは相容れないものでもある。結果として、妻の由美子は精神を病んで入院、長女の珠江は決定していた婚約を破棄され、家族の誰もが信之のある意味冷淡な態度にすっかり冷え切ってしまうことになる。

 幸福な家庭は一様に幸福であるが、不幸な家族はさまざまな不幸であるというアンナカレニーナの出だしの言葉を信之は若い頃読んで、未だに覚えている。幸福な家庭とはいったいどういうものなのかさえ現在の信之は忘れていた。

「家族とは何か」というテーマの物語を書くさいに、家族の救いではなく、家族の崩壊を描いていく、という本書の構造についてあらためて目を向けたとき、そこに浮かび上がってくるのは、それまでにない新しい価値観を生み出そうとするさいに、必然的に起きてくる既存の価値観の破壊のプロセスであり、それはそのまま、乙彦が目指した「世界革命」のプロセスと並び立つものであることが見えてくる。そういう意味で本書が本当に書きたかったのは、法律という合理的精神による新しい家族の形の実現を、思いがけずも目指すことになった父親のはてしない戦いであり、信之と乙彦のふたりは、本書のなかではけっきょく最後まで対面することはないものの、親子というよりはむしろ、同じものの考え方をし、似たようなことを実現しようと戦いつづける同志のようなものとしてとらえているのがわかってくる。じっさい、彼らが似たような性質をもっているという描写は、血筋の点からけっこう意図的な類似をほのめかせてもいる。そして、そんな彼らの戦いは、たとえば由美子の婚約者である達也の、さっさと親から離れて個人としての自由を満喫しつつも、家族であることの利権もしっかり要求していくような態度や、ハイジャック犯に対してけっきょくは超法規的措置という弱腰な対応しかとることのできない日本政府の態度といったものと対比されることによって、いっそうその孤高感、悲壮感が増してくるようになっていく。

 幸せな家族、理想の家族というものは、ただの幻想にすぎないし、仮にそうしたものがあったとしても、それはちょっとしたことでもろくも崩れ去ってしまう、きわめて不安定な代物でしかない、という現実――それは家族というよりも、幸福というもの全般について言えることだろうと思うのだが、だからといって、家族を構成する個人がさっさと一人前の大人として独立し、社会のなかでお互いを干渉することもなく生きていくべきだと言うつもりもない。だが、もし本書で信之の貫いた信念が、ある種の人間の生き方としての理想であるとするなら、人々が真に個人として独立するというのは、なんと寂しく、そして厳しいものであろうか。私が本書を読んで感じたやるせなさは、けっきょくのところ家族という居場所に頼らず、しっかりと自分の足で立って生きていくことの孤独感によるところが大きかったのだろうと思っている。(2005.09.02)

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