【新潮社】
『しゃべれども しゃべれども』

佐藤多佳子著 



 私は昔から喋ることがあまり得意ではなかった。得意ではない、というよりも怖い、と言ったほうがより正確かもしれない。私の何気ない一言が、自分の意志とは関係なく相手を深く傷つけてしまったり、逆に相手の言葉に傷つけられたりすることを繰り返すうちに、自分の思いどおりにならない言葉、不完全な道具である言葉を使うことが怖くて仕方がなかった時期があった。まるで、言葉が人を傷つけるために存在するのではないか、という歪んだ考えに囚われて、無性に悲しくなったのを覚えている。どれだけ注意深くなり、慎重に言葉を選んでも言葉は自分を裏切り、いっそのこと一言も喋らないほうがましだと真剣に悩んだ時期もあった。

 もちろん、今は人並みに世間話もするし、相手の言葉をうまく受け流す術も覚えた。だが、人前で喋るのはあいかわらず苦手である。会社で企画のプレゼンテーションをやるときなど、思わず「必要な事柄はお渡しした資料にすべて書かれていますので、とにかく読んでみてください」と言いたくなるのを我慢しなければならない。

 そういう意味では、本書『しゃべれども しゃべれども』は、「人前で喋ること」に関するプロフェッショナルが登場する物語である。外山達也――今昔亭三つ葉という芸名を持つ彼の職業は、落語家である。十八のときに、今の師匠である今昔亭小三文の弟子入りをしてから約八年、二ツ目に昇進したのはいいものの、師匠の古典落語にこだわるあまり、私服のときまで着物で通すほどの石頭、短気で喧嘩っぱやく、口より先に手が出てしまうという性格に加え、師匠は大の稽古嫌い、というのが災いして、本業の落語のほうはなかなか思うように上達しない、という日々を過ごしていた。そんな彼が、ひょんなことから集まってきた素人相手に落語教室を開くことになる――というのが本書のおおまかなあらすじである。

 三つ葉の従弟で、テニススクールのコーチとして大勢の人の前で指導すると、どうしても吃音が出てしまう気弱な綾丸良、本当は人から好かれたいと思いながら、人に嫌われるのが怖くて必要以上に無愛想で険しい顔で他人をはねつけてしまう十河五月、コテコテの大阪弁を喋るためにいじめの標的にされながら、負けず嫌いで強情な性格ゆえに大阪弁をやめようとしない小学生の村林優、かつて毒舌バッターとしてプロ野球界で名をはせながら、引退し、野球解説者になったとたん、視聴者の目を気にしすぎて喋れなくなってしまった湯河原太一 ――落語教室に集まってきたのはみんな、言いたいことがうまく言えないと悩み、それをなんとか克服したいと思っている人たち、しかもみんながみんなひとクセある人たちばかりである。「落語がしゃべれるからって、日常会話の指導なんかできない」と乗り気でなかった三つ葉であったが、なりゆきで落語教室らしきものを何度かやっていくうちに、彼らが抱える問題は、ただ日常会話をちゃんとこなすことができれば解決するようなたぐいのものではなく、もっと深い、それぞれの心の問題が関係していることを知るようになっていく。

 独特の江戸っ子調子でいきのいい三つ葉の軽快な一人称は、まるで落語を聞いているかのようにリズムがよくて、ひさしぶりに純粋な日本語に触れたような感じがした。私自身、落語についてはあまり詳しいほうではなく、せいぜいラジオの落語を暇つぶしに聴くくらいのものであるが、ああいった語りをずいぶんと意識したのだろうという箇所が、本書の文章にはいくつも見ることができる。また、「煮込みすぎてぐずぐずになった鱈のように」「湯船に屁のあぶくが浮くように」「喧嘩の火種があちこちでブスブスくすぶっているような」といった比喩表現もユーモアがあって、なかなかに楽しませてくれる。そして何より、人前で喋ることを生業としている落語家が、その商売道具である言葉について、そして会話を交わすことによって生まれてくるコミュニケーションについて、いろいろと思い悩み、おせっかいをやくという設定が、なんとも味があるのだ。

 三度の飯より落語が好きで、でも師匠である小三文の二番煎じにしかならなくて、強烈な個性が欲しいと思い悩み、それでも古い時代の持っている、ほのぼのとした雰囲気を落語という形で現代に語り伝えるのだと決意し、落語を続ける三つ葉にとって、言葉はなくてはならないものである。だが、その言葉をいくら駆使してみても、自分の噺はいっこうに上達しないし、十河たちはなかなか心を開こうとしない。惚れた郁子さんの前では、思うように喋ることさえできない。これからの人生に自信がもてず、困りきっているのは、何も十河や良ばかりでなく、三つ葉も同じなのである。まさに「しゃべれども しゃべれども」、である。

 だが、それでも落語教室は回を重ね、途中で何度か中断したりしながらも、ついには「まんじゅうこわい」という有名な噺の公演会をひらくところにまで物語はたどりついてしまう。言葉のもつ力とは、ほんとうはどういったものなのか、言葉に人を救うだけの力がほんとうにあるのか、そして落語を語るということが、自分に自信が持てず、言葉がたしかに自分の気持ちを乗せて相手の心に通じることがあるのだ、ということをどうしても信じられずにいる人たちに、何をもたらすことになるのか……?

 かつて、自分と同じように他人の悪口ばかり言って、そのくせ褒め言葉にいつも飢えていた恋人の話を三つ葉に打ち明けた十河は、言わなければならないことを言えないことの苦悩を次のようにぶちまけている。

「気持ちだけじゃだめなの。以心伝心じゃだめな時があるの。言葉が必要なの。どうしても言わなければならない言葉というのがあるの。でも、言えないのよ!」

 自分が心の中でどんなに感じていても、それを言葉にして吐き出さなければ、その想いは伝わらない。言葉はたしかに自分の気持ちを伝えるには不完全な道具であるのかもしれないし、口から出た言葉は不用意に人を傷つけたりするものなのかもしれないが、逆に人を励まし、感動させるもの、また言葉という道具をもってしか成し得ないことなのだ、ということを、本書はあらためて教えてくれたような気がする。自分をおとしめて、聴く人に安心して笑ってもらえる噺を語る落語家――その姿はみっともないものかもしれないが、自分が傷つくことをけっして恐れず、言葉の力を信じて語りつづける彼らの姿は、じつはとても格好いいものだったりするのである。(2000.06.27)

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