【文藝春秋】
『しょっぱいドライブ』

大道珠貴著 
第128回芥川賞受賞作 



 夫婦、親子、恋人、同僚、知人、親友――人と人とを関係づけるための言葉は無数に存在するが、そうした言葉で結びついた人と人とのあいだに流れる感情は、必ずしもその言葉が内包する一般的な理想の姿と一致しているわけではない。簡単に言ってしまえば、夫婦だからといっていつも仲睦まじくしているわけではなく、恋人どおしだからといって、いつもその相手のことを慕っているわけではない、ということだ。人の心は一定ではなく、時とともに微妙な変化をとげていく。それはときに、火山の噴火のように突如、激しく表面に出てくることもあれば、ときに鉄の酸化作用のごとくゆるやかなものであったりするのだが、私たちはこうした心情の変化、容易に移り変わっていく相手への感情を、「夫婦」や「親子」、「恋人」といった言葉でお互いを定義づけることによって、ある程度制御してきたのではないか、と思うことがある。それは、あらゆる未知のものに対して名前をつけることによって自分たち中心の社会を維持しつづけてきた、いかにも人間らしいやりかたである。

 世の中のあらゆる価値観が変化していき、それまで正しいと思われてきた理想の形が、じつにあっけなく崩壊していく現代において、人間関係もまた変化を強いられてきている。自分が何者なのか、何のために生きているのか――これまでであれば、そうした人々の根源的な命題の一端を肩代わりしていたはずの「夫婦」や「親子」、「恋人」といった既存の関係に対して、自分も相手も縛りつけるじつにやっかいな枷のように感じている人は、けっして少なくないはずだ。本書『しょっぱいドライブ』は、表題作を含む3つの短編を収めた作品集であるが、そこに登場する人たちの関係に目を向けたとき、そうした人間関係に対する変化というものを感じずにはいられなかった。

『しょっぱいドライブ』は、34歳の独身女性である「わたし」と、妻子持ちの60代の男性との関係を描いた作品だ。ほぼ親子に近いほどの年齢の差があるふたりの関係は、既存の言葉で定義づけしてしまうにはあまりにも微妙な位置にあると言わなければならない。

「わたし」の一家は、ずっと以前からこの九十九さんという男性に世話になっている。世話になっている、というのは、つまりは金の都合である。謙虚で人がいい九十九さんは、いやな顔もせずにホイホイとお金を貸してくれる。父はそんな人のいい九十九さんから金を借り、返したり返さなかったりしていた。その娘である「わたし」も、同じようなことをしている。だが、そのことで九十九さんに恩義を感じているかといえば、けっしてそうではなく、どこかでじつに都合の良いカモだと見下しているところがあるのは事実だ。少なくとも、「わたし」の父や兄はそうだった。ただ、「わたし」はどうかというと、必ずしもそれだけだとは言い切れないところがあるのだ。

 九十九さんと「わたし」は、何度か車でドライブする仲になっている。肉体関係をもったこともある。しかし、それで「恋人」という関係となるかと言えば、あまりにも年が離れているし、なにより別居しているとはいえ、九十九さんは妻子持ちだ。だが「不倫」と言うには、あまりに九十九さんと妻子との距離が離れすぎているようにも思える。「援助交際」と言うほどセックスと金とのバランスはとれていないし、「結婚詐欺」と言えるほど「わたし」という人物はあくどいわけでもない。といって、九十九さんが金銭という恩義を盾に関係を強制している、という解釈はあまりにも不釣合いだ。ようするに、このふたりの関係は、既存のどのような関係にもあてはまらないものであると同時に、そのすべてでもあるという、なんとも曖昧模糊としたものなのだ。

 そもそも複雑な思考をもち、さまざまな感情によって心を揺り動かされてしまう人間どうしの関係を、たった数語の言葉によって説明しようとすること自体が、乱暴なのかもしれない。既存の言葉で推し量ることのできない、人間どうしの複雑で微妙な関係――著者のこうしたテーマは、『タンポポと流星』における灰田未散と嬉野毬子の関係ではさらに顕著だ。幼稚園の頃から「トモダチ」だったという毬子は、ことあるごとに未散のプライベートに介入し、まるで母親か保護者でもあるかのようにその動向を知ろうとする。未散はそんな毬子の無意識の悪意になかば恐怖し、なんとか彼女の影響から逃れようと故郷を離れて東京の会社に就職するが、いざその干渉がなくなると、とたんに毬子のことが気になってしまう。仲が良いのか悪いのか、どちらがどちらに被害を受けているのかはっきりとしない、奇妙ともいえる人間関係が、ふたりの間では成り立っているのだ。

『富士額』は中学二年のイヅミが力士と関係をもつ、という話だが、そのイヅミにしろ、『しょっぱいドライブ』の「わたし」にしろ、男の人とセックスするということについてはごくごく淡白だ。そしてどちらも、極めて社会的な肩書きの影響下にない状態にある。『富士額』では、まだ相手は「力士」という肩書きをもち、イヅミはごくなんでもない、平凡な未来について思いをめぐらせる余地を残しているが、『しょっぱいドライブ』にいたっては、お互いに何者でもなく、しかもはっきりさせなくてはならない事柄はずるずると先送りされていく。その姿は、ある日突然あらゆる人間関係から解放され、すべての肩書きを失った者が、まさにそれゆえに何をどうすればいいのかわからず、途方に暮れているように見える。

 そうだ、説明のしようがない。しなくたっていい。してもいいが、しなくてもいい。誰にも説明なんかしなくてもいいのだ。

 九十九さんとデートしながら、心の中ではべつの男性のことを考えていたり、この人はどのくらいの貯蓄をもっているのだろうか、と現金なことを考えていたりするいっぽうで、けっして声に出したりしないが、寝たきりになっても世話してあげるよと殊勝なことを考えていたりする。だが、それらのすべてがはっきりとした決定につながることがない。そんな彼らの曖昧な関係について、潔くないと感じる読者はきっと多いだろうと思うが、相手の肩書きのみを頼りに、重大な決定をいとも簡単にしてしまう人たちの多いこの現実世界において、何の肩書きもないふたりの関係は、あるいは人と人との関係の真髄を突いているのではないか、と私は思うのだ。

 けっして既存の言葉で説明することのできない、人と人との関係のなかで生じる心の動き――本書には、ともすると言葉による「肩書き」に埋没することで安心してしまっている自分の姿を突きつけられたかのような、良い意味での居心地の悪さを感じさせるものがたしかにある。(2003.05.13)

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