【講談社】
『夏と冬の奏鳴曲』

麻耶雄嵩著 



 ミステリーのミステリーたる条件について考えていくと、昨今の出版業界による「とにかく謎さえあればミステリー」とくくって売り文句にしてしまう傾向もふくめ、何をもってミステリーと見なすべきなのかの基準が見えなくなってしまうのだが、では逆に、どのような要素があれば「ミステリーっぽい」のかを考えてみると、これは案外いろいろと挙げていくことができる。

 たとえば、絶海の孤島や雪山の山荘といった、外界から遮断された空間や、いかにもギミックに凝った建物、密室殺人や首なし死体といった異様な殺され方をしたと思われる死体、その死体が残したダイイングメッセージ、古くから伝わる伝承や言い伝えといった怪異的な要素、そして名探偵と呼ばれる、事件の真相を解き明かす役目を負った人物の存在――これらの要素は、昔からミステリーのなかで手を変え品を変えて使われてきた、言ってみれば手紙で書かれる定型文のごときものと化しており、ただ存在するだけで、ミステリー好きな読者にとって「ミステリー」を想起させるものとなってしまっている。たとえ、その作品のなかに解明されるべき謎が存在していなかったとしても。

 今回紹介する本書『夏と冬の奏鳴曲』は、上述のいかにもミステリーっぽい要素が数多く詰め込まれた作品である。舞台となるのは絶海の孤島、そこに建てられているのは、どこか人の平衡感覚を狂わせるような歪みをもつ館――そこは二十年前に、真宮和音という名の女優の熱烈なファン六人が、一年のあいだ奇妙な共同生活を営んでいた、まさに和音のための島、和音のための館であり、今回その和音島で行なわれるという同窓会に、雑誌の取材という形で同行することになった如月烏有と舞奈桐璃は、多くの読者がそのシチュエーションゆえに期待しているとおり、不可解な殺人事件に巻き込まれることになる。

 本書を読み進めていくと次第にわかってくることであるが、今回の事件においてその中心に鎮座しているのは、真宮和音という女優である。二十年前のファンたちとの共同生活において、不慮の事故死を遂げたという女性――しかしながら、彼女のことを知ろうと近づけば近づくほど、なぜかその姿は曖昧模糊としてつかみどころがないことに気づくことになる。女優という肩書きは、じつは彼女のファンたちによる自主制作映画「春と秋の奏鳴曲」に出演したというだけでつけられたものであって、よほどの映画通でも知らないようなマイナーな存在であるということ、その映画も今はどこも配信しておらず、ゆえに彼女の容姿を知る手がかりが皆無であること、しかしながら、二十年後に同窓会が開けるほどのファンがいるという意味で、どこかカリスマめいた魅力を髣髴とさせる存在であることもたしかであり、だからこそなおのこと、その存在の曖昧さに奇妙な感覚をおぼえずにはいられなくなるのだ。

 はたして、二十年前の共同生活において何が起こったのか、という疑問以前に、そもそも真宮和音という人物は本当に存在していたのか、という疑問のほうが想起されるという、なんとも奇妙な印象は、たしかな中心でありながらその中心が空洞化するという現象を引き起こす。そしてこの空洞化という現象は、物語のなかで引き起こされる殺人事件にも波及する。たとえば、第一の殺人事件である水鏡三摩地――島と館の所有者であり、和音のスポンサーだった男の首なし死体と、真夏に降り積もった雪によって形成された密室という要素。首なし死体といえば人物の入れ替わり、密室といえば自殺の演出と相場は決まっているのだが、このふたつの、それだけでミステリーという印象を想起させるものがふたつ同時に生じることで、それまでもっていたはずの意味がリセットされてしまうのだ。

 いかにも「ミステリーっぽい」要素に溢れながらも、その本来の意味をことごとく失ってしまっている本書は、はたしてミステリーであると言えるのか? 今回の事件において第三者的な立場にいるはずの烏有と桐璃にしても、たとえば私たちが想像しやすい「名探偵と助手」という立ち位置にあるわけではない。彼らもまた、真宮和音という空洞を中心とする、摩訶不思議な法則が支配する世界に巻き込まれた者たちであると同時に、その世界を成立させるための要素として組み込まれてしまった者でもある。ある意味で本書は、ミステリーという要素をもちいた壮大な隠喩的物語だと言うことができる。そこで必要なのは、謎をいかにして解き明かすかということではなく、謎をふくめた物語の要素がどのような伽藍を打ち立てていくのか、という点に尽きる。

「はい。わたしたちは和音を『神』と措定しました。正確には『神』の象徴として……そしてわたしたちは己の『神』を得ることができたのです」

 島田荘司の『占星術殺人事件』は言うまでもなく本格ミステリーの代名詞的作品であるが、そこで提示された完璧な美をもつ女性「アゾート」という要素は、奇想天外でおよそリアリティとはほど遠いものでありながら、その怪異的な雰囲気は間違いなく大きな物語的魅力を秘めていた。だが、この作品がミステリーであり、探偵によって真相が解き明かされてしまう運命にあるがゆえに、その魅力は真実の光によってかき消されてしまうことになる。麻耶雄嵩の作品は、前回紹介した『木製の王子』のときもそうだったが、謎を解明するというミステリーのお約束を踏襲することよりも、その「謎」から解き明かすための「真相」を取り除くことによって、ある種の「神話」を打ち立てようとしているのではないか、とさえ思えるところがある。

 たとえば、信号機において赤色が点灯しているとき、人にしろ車にしろ前進してはいけないというルールがある。これは道路交通上において大きな意味をもっているし、もしこのルールが守られなければ交通は大混乱に陥ってしまうことを私たちは認識している。だが、仮に人間の文明が崩壊し、何百年という時間の経過ののち、ただ一機の信号機のみが変わらず動いていたとすると、そこに信号機が存在するための理由はもはや存在しないにもかかわらず、ただそこに存在するというだけの理由で、その信号機はひとつの「神話」として機能することになる。赤信号のときに前進しないというルールも意味を失い、ただそれを守ることそのものに神話としての意味が付加されることになるのだ。

 二十年前に死んだはずの真宮和音――だが、彼女を象徴するものによって満ち溢れている本書の世界において、その空洞ゆえに神話化していくミステリーが展開されていく。そこでは被害者はもちろん、犯人も名探偵も、そして殺人のトリックや動機といったものでさえ、その神話の形成のための要素へと還元されていく。はたしてあなたは、その神話にどのような審判をくだすことになるのだろうか。(2012.07.08)

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