【講談社】
『スイス時計の謎』

有栖川有栖著 



 たとえば、私たちがその一生のなかで何らかの殺人事件に出くわす確率というのは、どの程度のものだろうか、と考える。警察などといった特殊な職業に就いている、といったことがなければ、おそらくほとんどの人はそんな状況に陥ることもなく、その生涯をまっとうするであろうし、あったとしてもせいぜい一度あるかないか、といったところだろう。そういう意味で、寿命とか病気といったもの以外の、外的要因――つまり誰かの手によって理不尽にその命が奪われる殺人という要素は、このうえなく不自然なものであり、それゆえにその死はさまざまなところでその不自然さを露呈させるものとなる。

 ミステリーにおける謎というのは、今ではかならずしも殺人事件がからむわけではなく、いわゆる「日常の謎」などもふくめ、いろいろなバリエーションが登場しているし、その内容も目指すべき方向も千差万別となってきているが、殺人事件の謎を解く、という流れが今もなおミステリーの王道でありつづけるのは、やはり「殺人」という要素がふくむ不自然さというものが、ある程度は誰にでも共有しやすい要素であることが大きい。ダイイング・メッセージ、密室での殺人、首なし死体――今回紹介する本書『スイス時計の謎』は、表題作をふくむ四つの短編を収めた作品集であるが、ある種ミステリーの王道的殺人事件ばかりをあつかった本書は、しかしたんにそれをネタとして使っているのではなく、そうした要素がこのうえなく不自然なものである、ということを理解したうえで、そこにどのような論理的意味が隠されているのか、という点に焦点をあてていく。つまり、殺害現場に残されていた不自然な状態を、論理によって整合づけし、自然な状態にもっていくための推理を展開するのだ。そして、そのことによって犯人像も、事件の全体像も浮き彫りになっていく。

 たとえば、『あるYの悲劇』はダイイング・メッセージのミステリーであるが、探偵役である火村英夫は、被害者が壁に書き残した「Y」の字の不自然さに注目する。ダイイング・メッセージとは、被害者が今際の時に何かを伝えるために残したものであり、通常は自分を殺害した犯人の手がかりと結びつくものだ。そこには、もし被害者が死ぬ寸前といった不自然な状態でなければ、はっきりと犯人が誰であるかを伝えることができたのに、という前提がある。ダイイング・メッセージというものは、その存在自体が不自然なもの、普通であればけっして存在しないものなのだ。

 本書のなかで、被害者の山本優嗣はまず「やまもと」と第一発見者である恋人に言っている。だが、被害者がなぜ自分の名字を言わなければならないのか、という疑問がまず出てくる。そして壁に残した「Y」の文字――お膳立てとして、被害者は壁に「Y」を書こうとした、という共通認識がすでにできあがっているのだが、そうした発想は、言ってしまえば思い込みの産物でしかない。ここで中心になるのは、残されたダイイング・メッセージをどう解釈するのが、もっとも自然なのか、ということである。

 こうした推理の視点の徹底は、首なし死体をあつかった『女彫刻家の首』でも、密室殺人をあつかった『シャイロックの密室』でも基本は同じである。とくに『シャイロックの密室』では、密室殺人であることを読者に提示するために、初動捜査によって被害者の利き手の情報を早々に開示してしまう。被害者は銃を使うときは左手をもちいるはずなのに、硝煙反応は被害者の右手から検出された、という事実は、この殺人事件が他殺であり、にもかかわらず被害者は密室状態にあった、つまり密室殺人の謎を解くことを前提で読んでほしいと著者が語っているのである。

 本来であれば、無数の可能性があるはずの殺人事件において、ある特定の不自然な要素を確定したうえで、その謎を解いていくという手法は、それだけ読み手に対しては親切だと言うことができる。ダイイング・メッセージであれば、その意味が解ければおのずと犯人も確定されるし、密室もそのトリックさえわかれば犯人はほぼ特定できてしまう。これまで読んできたミステリー作品のなかで、本書ほど謎解きに特化したものは他に知らないし、そういう意味である種の潔ささえ感じられる。

 本書のなかで、探偵役となって登場する火村英夫は、英都大学社会学部の助教授で、専門は犯罪社会学。警察からも事件解決のためのアドバイザーとして一目を置かれているという立場にあり、物語は彼から、一人称の語り手である有栖川有栖に連絡が来る、という形をとることがほとんどだ。そして、彼の推理にこの語り手としての有栖川有栖という人物が必要かといえば、必ずしもそういうわけではない。ジャック・フットレルの『思考機械の事件簿1』におけるハッチンソン・ハッチのように、探偵のために情報を収集するというわけでもないし、そもそもその役目は警察が肩代わりしてくれている。だが、もし語り手がいなかったとしたら、本書で起こった事件はあまりにミステリー小説すぎて、リアリティーあるものとして受け入れられないものとなっていた可能性がある。

 火村が有栖川を呼ぶのは、その事件がいかにもミステリー小説じみた要素をふくんでおり、それゆえに現役ミステリー作家である語り手の、ミステリー小説にかんする知識が、もしかしたら推理のヒントになるかもしれない、という期待があるからだ。それは逆にいえば、ごく普通の殺人事件であれば、火村は有栖川を呼ばない、ということでもある。そこに有栖川がいるからこそ、彼の視点で語られる事件は、いずれもミステリー小説向きのものである、ということにひとつの論理が成立することになるのだ。

 そしてこの論理という点において、火村の推理は首尾一貫している。とくに表題作である『スイス時計の謎』にいたっては、純粋な論理のみで磐石の包囲網を張り、犯人を追いつめてしまうという徹底ぶりである。殺人事件の現場にわずかに残されていたガラス片、被害者の腕から奪われたとされる時計、被害者をふくむ六人で二年に一度行なわれていた同窓会の、ある特殊性――まるでパズルを解くかのごとく、ありえない可能性をひとつずつ潰していくことで、真犯人を特定し、しかもその論理が鉄壁であるという点で、もっともミステリーらしいミステリーを構築することに成功している。

 本書のなかに提示されている謎は、あるいは完全犯罪を目指したものであったり、あるいは思いがけない出来事によってやむなく生じてしまったものでもあったりする。だが、それが他ならぬ人間によってなされたものであるかぎり、どこかにその不自然さが露呈してしまう、という一種の信念が本書のなかにはある。そしてそれゆえに、謎を推理する探偵は、普通の人なら見逃してしまうその不自然さに目を向け、なぜそんな不自然な形になったのかを解明しようと試みる余地が生まれてくる。古き良きミステリーの王道を踏まえた本書であるが、その王道も完璧な論理によって構築されれば、これほどまでに美しい形を成すものであるのか、という驚きを、ぜひとも味わってもらいたい。(2008.10.31)

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