【講談社】
『わたしが・棄てた・女』

遠藤周作著 



 私はまだ結婚もしていない独身男性であり、それゆえに自分に子どもがいたら、と思うことはもちろん、自分が誰かを生涯の伴侶として迎えるとか、新しい家族をもち、自分が夫とか父親とかいう立場になるということについて、あれこれ想像をめぐらせることがある意味戯言でしかないことは承知しているが、それでもなお、たとえば自分に子どもがいたとして、その子どもにどのようなことを教えてやればいいのだろう、とふと思うことがある。ひとりの人間として立派に育ってほしいと思うのは、人の親であれば誰もが願うことではあるが、では「困っている人がいたら親切にしてあげなさい」というあたり前の道徳を素直に子どもに諭すことができるかどうか、ということになると、じつはあまり自信がない。理由はしごく簡単で、世の中には「困ったふりをして悪いことをしようとする人間」が数多くいることを私は知っており、他ならぬ自分の子どもが、そうした人間の悪意を見抜くことができる、という保障はどこにもなく、そうである以上、私はけっきょくのところ「知らない人のそばに近づいてはダメだ」と教えるしかなくなるからだ。たとえ、その相手が本当に困り果てていたとしても、である。

 この世界に生きるみんながみんな、善意に満ちた心をもっているわけでないことは、残念ながら事実である。自分の利益や黒い欲望ばかりを優先させ、そのためには他人を傷つけ、心を踏みにじることになんの痛痒も感じない者たち――その悪意から、自分の愛する家族を守りたいと思う気持ちはたしかに尊いものであるが、そのために、たとえば困っている人がいても近づいてはいけない、と教えることは、けっきょくのところ自分の都合ばかりを優先させる、思いやりに欠けるような人間を育ててしまうことを意味しているのではないだろうか。それでなくとも、人は自分が孤独であるという絶望感に底知れぬ恐怖を覚えるがゆえに、愛するものを守ろうとする生き物であるというのに。

 もし、神というものがあるならば、その神はこうしたつまらぬ、ありきたりの日常の偶然によって彼が存在することを、人間にみせたのかもしれない。理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている……。

 本書『わたしが・棄てた・女』がかかえている最大の主題は、「愛とは何なのか」ということに尽きる。そしてここでいう「愛」とは、ある特定の人間だけに向けられる感情ではなく、たとえば困っている人がいれば、その人間が誰であろうと手を差し伸べずにはいられない、言葉にするなら「博愛」と呼ぶべき精神のことを指している。

 時代は戦後間もない荒涼とした日本。貧乏学生のひとりである吉岡努は、とにかく女であれば誰でもいいからひっかけてみたいという思いから、たまたま手にした雑誌の投稿欄に住所を載せていた森田ミツという女性と会う約束をとりつけたものの、じっさいにやってきた森田ミツは、顔立ちも体つきも服装のセンスもパッとしない、けっして美人とはいえない小娘でしかなく、吉岡努はけっきょく、やるだけのことをやってそのまま彼女を捨て去ってしまう。彼にとって、ミツとの逢瀬はただのお遊び、一時的な欲望のはけ口であり、そういう意味では売春婦と同じ扱いでしかなかったが、ただひとつ、ミツが度を越したお人好しであり、自分の利害などそっちのけで相手のために尽くしてしまう、いかにも悪人につけこまれそうな性格をしているということだけが、心の隅にひっかかりつづけていた。いっぽうミツのほうは、彼に捨てられたのだと気づきつつ、その想いをあきらめきれないまま職を転々とする日々をおくっていたが、ある日、手首にできた赤黒い痣を病院で調べてもらった結果、ハンセン病にかかっていると診断されてしまう。

 こんなふうにあらすじを書いてしまうと、まるでふたりの関係がどのように移り変わっていくかを描いた恋愛小説のような印象をもたれるかもしれないが、本書のテーマが純粋に「愛とは何か」を問いかけている以上、ある特定の人間にのみ寄せられる特別な感情がメインであることはありえない。本書における吉岡努と森田ミツとの関係は、言ってみればそれぞれがもつ「愛」の形を対照的に映し出すためのものであると同時に、森田ミツが抱く「愛」――いっけんするといかにも感傷的で、安っぽい同情のようにさえ映る慰めの心が、真の「愛」と呼ぶにふさわしいものであるかどうかを推し量るためのものでもある。

 吉岡努は幼児のころに軽い小児マヒをわずらい、そのために少し右足が不自由であるのだが、彼はそのハンディのせいで自分はなかなか女に恵まれない、というちょっとひねくれた思い込みをもっている。それはたしかに同情すべきことではあるかもしれないが、まさに彼がそのハンディにつけこんで、森田ミツの同情心を引き起こそうとたくらんだ点から見ても、吉岡努という人物はけっしてひとりの人間として褒められた性格をしているわけではない。もちろん、根っからの悪人というわけでもないのだが、それなりに金や女がほしいという欲望をもち、また裕福な生活をしたい、出世したいという野心も持ち合わせている青年、という位置づけがもっともしっくりくる。そしてこのような野心は、彼と同じような年齢の男性であれば、誰もが多かれ少なかれ心に抱いているたぐいのものでもある。

 やがて、大学を無事に卒業した吉岡努は、とある中堅会社に就職し、その社長の娘である三浦マリ子と親しくなる。彼女もまた彼を少なからず想っているところがあり、そのうちふたりが結ばれるであろうことは、容易に想像できるのだが、そんな彼のささやかな幸福――愛する家族と得ること、そして会社における出世という自身の野心を同時に満たしていくという幸福が深まれば深まるほど、それと比例するかのように、けっして器量がよいとは言えない、愚鈍な森田ミツの存在が彼の心に何かを訴える。それは、吉岡努の愛があくまである種のエゴイズムから生じた愛であるのに対し、森田ミツの愛が、そうした損得勘定を無視した部分で成り立っている愛であることを雄弁に物語っているのだ。

 小児麻痺にかかったことのある吉岡努に憐憫の情をいだき、彼を慰めるために自分の処女をささげたミツ、せっかく苦労して稼いだ給料を、どうしても金を必要とする人にひょい貸してしまうミツ、病気の老人に、自分の座っている席を譲らずにはいられないミツ――それは、たしかにこの厳しい世の中を生きていくには、あまりに無防備で、そして損ばかりする生き方であるが、そもそもそうした損得勘定といったものをまったく意識しないという彼女の性格のなかに、著者は自身の普遍的なテーマである「愛」の、ひとつの形を見出そうとした。そういう意味では、本書は純粋な愛、けっして見返りや打算で左右されることのない、純粋な「愛」が、はたして人間のなかに成立するかどうかを試みるために書かれた小説だと言うことができるだろう。

 誰かにやさしくすれば、時にそのやさしさにつけあがる人間がいることを、私は知っている。そうした人間に対して、たとえ嫌われることになっても、その人の今後のためにあえて厳しく突き放してしまうことも、やさしさにつながるのではないか、と私は考えていた。だが、あるいはそんなふうに考えてしまうこと自体、自身の損得勘定にとらわれている証拠なのではないか、と本書を読み終えて、そんにふうに思わざるを得なかった。真の「愛」とは何か、人として清く生きるとはどういうことなのか、その手がかりが本書のなかにたしかにある。(2004.12.11)

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