【新潮社】
『太陽の季節』

石原慎太郎著 



 たとえば、「この世は金がすべて」だという考えについて、私がどことなく嫌な感じをおぼえてしまうのは、お金というものがたんなるモノやサービスの対価ではなく、人間社会をうまく機能させていくための屋台骨のひとつであるという認識を、頭のどこかでもっているからだと思っている。言うまでもないことだが、貨幣や紙幣はそもそもただの加工された金属であり、印刷された紙でしかない。人間社会における強烈な約束事が、それらのものに価値を与えているにすぎないのだ。「この世は金がすべて」だという価値観を、もし頭から信じ込んでいる人がいるとしたら、それはその価値観を成立させているはずの、より大きな枠組みの存在がはなから抜け落ちていているか、それを知ってて無視しているかのどちらかでしかない。

 しかしながら、貨幣や紙幣というのは、目に見える価値だ。目で見ることができる、触ることができるというのは、非常にわかりやすいということでもある。貯金通帳の残高に示される数字は、これ以上はないという明確さでその多い少ないを比較する指標になる。だが、その額の大きさが単純にその人の価値を決めてしまうという考えが、きわめて一元的なものの見方でしかないことも、私たちは知っているはずだ。もしそうでなければ、生まれつき体の不自由な人間は、「健全な肉体」というわかりやすい価値をもっていないという理由で排除されてしかるべきだという理屈を受け入れることになってしまう。

 今回紹介する本書『太陽の季節』は、表題作をふくむ五つの作品を収めた短編集であるが、いずれの作品についても共通しているのは、そうした一面的な「健全さ」を描いたものだということである。そしてその「健全さ」を象徴するものとして第一にあるのが、若者がもつ五体満足な、きわめて「健全な肉体」である。だが、ここで述べるところの「健全な肉体」とは、彼らが生きる人間社会においては、たんなる見かけ以上の明確さを欠く価値観であり、ひどく主観的なものでしかない。そして本書の登場人物たちは、一様にそうした曖昧模糊とした肉体的な価値観――自分たちにとって、唯一価値のあるはずのものの、その曖昧さゆえの苛立ちに満ちている。

 この年頃の彼等にあっては、人間の持つ総ての感情は物質化してしまうのだ。最も大切な恋すらがそうでなかったか。大体彼等の内で恋などという言葉は、常に劇画的な意味合いでしか使われたことがない。

(『太陽の季節』より)

 これら短編集に登場するのは、たいてい大学生か高校生の若者たちで、表題作『太陽の季節』の津山竜哉にいたっては、ボクシングのクラブに所属しており、それにふさわしい鍛えられた肉体の持ち主であることが想像できる。少なくとも病気や貧弱さに悩まされるような体をもっているわけではなく、そういう意味でいかにも若者らしい健全な肉体を有していると言える。しかしながら、そんな彼らが集まってやっているのは、博打であったり、喧嘩であったり、あるいは商売女を抱いたり、そうでない女を誘って遊んだりといった、およそ健全とは言いがたい即物的な遊びばかりだったりする。また、夏に別荘に行って船を出すなどといった享楽ができることから、金に関してもなんら苦労することのない身分であることが知れる。

 逆に言えば、そうした即物的で、早急に結果が見えるような事柄だけが、彼らにとっての生きることへと直結しているわけだが、本書を読んでいくとわかってくるのは、彼らがおよそあらゆる事柄について――たとえば恋愛や友情、死といった抽象的な観念についてさえ、目に見える物理的な何かで置き換えずにはいられない者たちであるということだ。そしてその置き換えの筆頭に来るのは、常にお金である。

 『太陽の季節』の竜哉にとって、女とは自身の男としての価値を高めるための勲章でしかないものであったが、そんな彼が英子という女性に惹かれたのは、彼女が自分と同様、男をひっかけて翻弄することに生きる意味を見出そうとしているがゆえであり、そこに純粋な恋愛感情などというものはなかったはずだった。それゆえに、英子が竜哉の恋人として、ふだんから自分を彼の特別な存在として振舞おうとしたとたん、彼はそんな彼女の行為を疎ましく感じ、あげく自分の兄に金で売り渡すようなことをしてしまう。それは竜哉にとって、恋愛という感情が目に見えない、触れることのできないものであり、そこに価値を見出せないがゆえに、無理やりにでも自身の信じる価値に変換しようとした結果だと言える。

 著者の処女作となる『灰色の教室』では、同じクラスの宮下嘉津彦の自殺騒動が起こるが、以前にも自殺未遂を起こした彼が、ふたたび「死」という、この世の価値観では推し量れないものを求めていく姿が、クラスの生徒たちのあいだで神聖化されていく様子が書かれている。恋にしろ、死にしろ、基本的に見えないものに価値を見出せない彼らではあるが、だからこそそうした物理的な価値を超えた何かに強く惹かれてしまうのも、じつは本書に登場する若者たちの大きな特徴となっている。なぜなら、お金に代表される物質的価値を信奉することは、そのまま彼らが忌み嫌っている大人の世界のルールを受け入れることを意味するからだ。

 だが、世のなかのことをよく知らない彼ら若者たちにとって、唯一模倣できるものがあるとすれば、それはやはり大人の世界のルールでしかありえない。お金で動いていく世のなかという、わかりやすいルール――そうした価値観にいつのまにか染まっている自分たちに嫌悪しながらも、それでしか価値を測れないというジレンマの行き着く先が、自分たちの肉体的な感覚という、きわめて主観的なものであるのは、ある意味で必然でもある。そしてそうした感覚は、何も本書が書かれた過去の時代だけに限定されるものではない。現代においてもこうした若者は存在するし、そんな彼らの思考も、おおむね似たり寄ったりだと言える。

 以前の野放図な友人に戻ってもらいたいがゆえに、友人を売るような真似をしてしまう『処刑の部屋』において、克己は友人を売った相手から手酷いしっぺ返しを食らうことになるが、そうした暴力的制裁を加えるのは、あくまで同じ価値観を有する若者たちであって、それ以外の世代の登場人物は、基本的に無視されているか、いたとしてもただの傍観者以上の役割を与えられていない。そういう意味で、本書の作品はどこまでも野放図な若者たちの無軌道な世界によって成立していると言うことができる。そして、それゆえに本書の世界観は、どこまでも何かが決定的に欠けているという認識を読者に与えずにはいられない。自分の行為に意味など求めない、自分が一番したいと思うことを、やりたいようにやる――誰もその内を覗くことのできない心の内の、その空っぽの行為に「太陽」の名を冠したタイトルをつけたのは、はたしてどのような皮肉なのだろうかと思わずにはいられない。(2012.06.26)

ホームへ