【講談社】
『日曜日たち』

吉田修一著 



 人はその一生のうちに、どれだけ多くの人と出会い、同じ時間を共有し、そして別れていくのだろう。近所の友人、学校で知り合ったクラスメイト、サークル仲間、会社の同僚、よく立ち寄るお店の店員、ペンパルやメールフレンド、そして親兄弟や恋人――時と場所によって、立場によって、身分や年齢の違いによって、人と人との関係はめまぐるしく移り変わっていくものであるし、一度つながった関係が、まったく何の変容もないまま続いていく、ということもありえない。そして、どんなに長くつづいていた関係であったとしても、いつかは終わる時が来る。それがいつ、どのような形で彼らのもとにやってくるのか、それは誰にもわからない。劇的な事件が起こるのかもしれないし、あるいはふと気がつくと会わなくなっていた、ということだってありうるのだ。

 よくよく考えてみれば、それまでまったくの他人であったはずの者たちと、なんらかの関係が生まれる機会というのは、そうそうあるものではない。私が大学の頃に知り合った友人のひとりは、「挨拶する者はみんな友達だ」などと陽気に話していたが、その人生において出会う人たちの大半は、道を歩いていてすれちがう人々と同様、ほとんど記憶にとどまることもないまま忘れ去られていってしまう存在にすぎない。そんなふうに考えると、人と人とが出会うということに対して、何か感慨深いものがあるいっぽうで、どれだけ深くつながったと思っていた人であっても、いったん別れて長い時間が過ぎていくにつれて、徐々にその人のことを思い出さなくなっていくという事実に、一抹の寂しさを感じたりするものである。

 本書『日曜日たち』という、じつに不思議なタイトルについて、ちょっと考えてみる。日曜日といえば、学校や会社が休みとなる日のことだ。もっとも、サービス業なんかは必ずしも日曜日が休みになるわけではないのだろうが、少なくとも神様だって世界の創造を休んだ日なのである。日曜日、人々は「会社員」や「生徒」といった社会的な身分から解放され、ほんの少しだけ「自分自身」へと戻っていく。日曜日というのは、人々がほんの少しだけ素直になれる日、ということなのだろう。

 本書は表題作を含む、五つの短編を収めた作品集である。それぞれの短編のタイトルには、必ず「日曜日」という単語がついている。そして、たとえば「日曜日のエレベーター」では、職務怠慢で会社をクビになったある三十男が、日曜日の夜ごとにゴミをマンションの1階にあるゴミ集積場まで捨てに行くその過程で、昔つきあっていた女のことを思い出す、という内容であり、「日曜日の被害者」に登場する夏生は、日曜日の深夜に学生時代の友人からの電話で、はじめてその友人が泥棒の被害にあったという話を聞き、そこから自分たちが学生時代のときに行った京都への旅行のことを思い出していく。そういう意味では、これらの短編の主人公はいずれも日曜日という「現在」から、かつての自分が出会い、関係をもった人たち――それも、日曜日だから関係が切れてしまうような、組織がらみの関係ではなく、より深くお互いの内へと踏み込んでいくような関係を結んだ人たちと過ごした「過去」を回想する話だと言える。

 すでにその人にとって「過去」に属してしまった人たちのことを思い出す瞬間が、日曜日であるというシチュエーションは、なかなかに心憎いものがある。平日なら「現在」を生きるのに忙しく、思い出すこともない「過去」の人たちを、ふとしたきっかけで思い出したりするのは、たしかに自分がより「自分自身」に近い場にいる日曜日という時間がふさわしい。「日曜日の新郎たち」では、親元を離れ東京でひとり暮らしをしている健吾のもとへ、知人の息子の結婚式で上京した父親がやってくるという話だが、その父親がやってくるのは日曜日を含めた三連休を利用してのことであり、健吾も父親もそこで死んだ恋人や妻のことを思い出しているし、「日曜日の運勢」に登場する田端は、冒頭からこれまでに知り合って、大なり小なり彼に不運をもたらした女性たちのことを回想しているが、そのオチが最後にたどりつく「現在」は、やはり「天気のよい日曜日の夕方」である。「過去」に属するものが、ふっと「現在」へと近づいてくる瞬間を、本書は見事に切り出している。

 本書はそれぞれが独立した短編集ではあるが、じつはその裏にはもうひとつの物語が隠されている。それぞれの短編の登場人物たちが思い出す過去のなかに、必ず紛れ込んでいる幼い兄弟――彼らの人生のほんの瞬間交わったにすぎない、ふつうならすぐに忘れてしまってしかるべき小さなエピソードの中心にいる幼い兄弟が、はたして何者で、どんな事情をかかえてふたりきりでいるのか、という謎が、短編を読み進めていくにつれて徐々にあきらかになり、彼らが最終的に迎えることになる結末が、最後に置かれた「日曜日たち」という短編で書かれているのだ。こうした、いっけん無関係な人たちのあいだに何らかの接点をつなげていく手法は、著者の芥川賞受賞作である『パーク・ライフ』でもおなじみのものである。

 たとえば、誰かに親切にしてやりたいと思う。でも、してくれなくて結構だ、と相手は言う。だったら仕方がないと諦める。――(中略)――親切など結構だと強がる人が、実はどれほどその親切を必要としているか、これまで考えたことさえなかったのだと気がついた。相手のためだと思いながら、結局、自分のためにいつも引き下がっていたのだ、と。

(「日曜日の運勢」より)

 絶対に忘れまいと誓った大切な思い出が、年月を経ることで徐々に色あせ、おぼろげになっていったり、逆に二度と思い出したくない記憶が、いつまでも脳裏にこびりついて離れなかったり、そのときはなんてことのない、些細な事柄だと思っていたことが、何年も経ってふと鮮やかによみがえってきたり――おそらく、人と人との関係の重要性は、どれだけその人と長く付き合ってきたか、といった時間の流れとは切り離されたところにあるのだろうと思う。そして人はけっきょくのところ、自分以外の誰かの態度を通してしか、自分自身というものを把握することができないものでもあるのだ。

 あなたの人生のなかですれちがっていった、多くの人々――もしかしたら、そんな人々とのちょっとした出会いと別れが、以後のあなたの運命を大きく変える可能性があるのではないか、たとえ自分にとってはたいしたことではなかったとしても、別の誰かにとって、その人の存在は大きな救いとなった可能性があるのではないか、と考えると、ほんとちょっとだけ生きていくことに対して勇気がもてるような、そんな気にさせられる。本書はようするに、そんな作品なのだ。(2004.03.24)

ホームへ