【新潮社】
『サマータイム』

佐藤多佳子著 



 社会人となって日々はたらく身となってひさしい私にとって、一ヶ月以上も休みのとれる「夏休み」というのは、このうえなく甘美な響きをもつ言葉だ。それほど長い休みがとれるのであれば、きっと普段ならできないようなさまざまな事柄を実現させることができるに違いない、などと思うのだが、自分が子どもだった頃――まだ夏休みを思う存分謳歌できた年頃を振り返ってみたときに、休みの前にはいろいろと思い浮かべていた計画が、けっきょくのところ中途半端なまま終わってしまったり、あるいは実現することなく立ち消えになったりすることが大半だったことを思い出し、少しばかり苦い思いにとらわれることになる。

 子どもというのはまだまだ未成熟で、程度の差こそあれ大人たちの庇護を必要とする存在である。長い夏休みをもらっても、大人の視点からすれば子どもたちにできることは限られている。永遠のようでいて永遠ではない子ども時代――ひ弱で無力な子どもでしかないことから来る不自由さに、理不尽な思いをいだきつつ、「いつかは」「今度こそは」と大それた計画や夢を描きながらも、いつしか体も心も成長し、以前より自由に行動することが許される立場になった頃には、当時の計画や夢もすっかり色あせてしまっていることに気づく。自分が大人になったことを自覚したときに、子ども時代に何かを置き忘れてしまったような、どこか物悲しい思いにとらわれてしまうのは、きっと私だけでないはずだ。

 本書『サマータイム』は表題作を含めた四つの短編を収めた作品集であるが、あくまで物語の核となっているのは『サマータイム』一作だと言える。語り手の伊山進は小学五年生。台風の接近しているある夏の日にわざわざ市民プールに出かけた進は、その人影もまばらなプールで奇妙な泳ぎ方をしている男の子と出会う。彼の名は浅尾広一。進よりふたつ年上の彼の左腕は、肩から先が失われていた。

 ものすごく特別な人って感じがした。彼の内側の光にぼくは感電する。あの感情をいつわらない、ちょっとはにかんだ、カンの鋭い言葉がたまらなくいい。もちろん、腕のこと抜きで、広一くんを考えられなかったけれど、それがすべてじゃないんだ。

 進のクロールを「バランスが悪い」と挑戦的に言ってのけた広一は、母親でピアニストの友子とふたり暮らし。同じ集合団地の別の棟に住んでいる彼の部屋を訪れた進は、広一が片手だけでピアノを弾くのをまのあたりにする。「サマータイム」――ジャズのスタンダード・ナンバー。そのとき、進は広一という少年が放つ強烈なエネルギーにすっかり魅了されてしまっていることに気づく。

 四年前の交通事故で父親と片腕を失った広一が、そのひと目でわかる障害のせいで、良くも悪くも固定された第一印象を他人から押しつけられることが多いだろう、というのは、ちょっと想像力をはたらかせれば容易にわかることである。そうした第一印象に圧倒されながらも、それ以上の何かを広一から感じとった進の感受性は、子どもならではのものだ。本書にはこうした、子どもだからこその感じ方やものの考え方に溢れていて、それこそがこの物語を特徴づける大きな要因であることは間違いないところであるが、同時に子どもであるがゆえの中途半端さ、未完成な部分についてもさまざまに形を変えて強調されている。代表的でわかりやすいのは、片腕を失って以前のように大好きなピアノを弾けなくなった広一の存在であるが、他にも失った夫の面影を追うように、次々と恋人をつくっては別れてしまう友子や、あるいは『五月の道しるべ』における、進の姉である佳奈のピアノに対する屈折した思いや進に対する幼いゆえの傍若無人ぶり、『ホワイト・ピアノ』に登場するピアノの調律師センダくんの、商売人として割り切ることのできない思いなど、数え上げればきりがないほどである。

 もちろん、友子やセンダくんはいい年した大人ではあるが、どちらもどこかわがままで子どもっぽいところが抜け切れていない人物として描かれているのは、たとえば進の両親と比べたときの印象の残りやすさを考えれば、彼らもまた「大きな子ども」として扱われているからだと言うことができる。そして『サマータイム』の物語においては、進と佳奈と広一の三人で過ごした夏の日々が、広一の転校によって唐突に打ち切られてしまうという形で、それぞれの心に完結しない何かを残すことになる。一向にピアノに興味をしめさない姉に代わって、広一の「左手」になれるようにピアノをはじめた進、自転車に乗れない広一がひとりで自転車に乗れるよう、秋から彼に自転車の特訓をさせている佳奈――だが、その成果を見ることなく、唐突な転校によって宙に浮いたままになってしまったそれぞれの物語もまた、子どもであるがゆえの未成熟さを象徴している。

 上述したように、物語の核となっているのはあくまで『サマータイム』であり、『五月の道しるべ』については進と佳奈が広一と出会う以前を、『九月の雨』と『ホワイト・ピアノ』についてはふたりが広一と別れてから再会するまでの期間を補うサイドストーリーという捉えかたができる。これら三作については、語り手が広一や佳奈へと変わっており、『サマータイム』では見えにくかったふたりの気持ちが見えてくるような構造となっているのだが、とくに『九月の雨』と『ホワイト・ピアノ』の二作については、広一と友子、広一と種田、あるいは佳奈とセンダくんという形で子どもと大人が組み合わさって物語が進んでいき、大人たちのようには割り切れない子どもたちの想いについて、より強調されるような展開となっている。

 子どもの頃にいだいていた「いつかは」「今度こそは」という思いは、その大半が実現することなく色あせてしまうものだと上述した。だが、実現しなかったそれらの思いが、ではその人にとって無価値だったかというと、けっしてそんなことはない。完結しなかった思い、断ち切られて宙に浮いてしまった感情――私たちがかつて持っていたはずの、子どもだからこその中途半端な思いを鮮やかに甦らせるものが、本書のなかにはたしかにある。(2007.07.22)

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