【集英社】
『ららのいた夏』

川上健一著 



 人が何かに夢中になる、あるいは、人が誰かを好きになる――そうした心の動きに対して、なんらかの理屈づけを試みるというのは、本来であればこのうえなく野暮なことだと言える。それはそうだろう。当の本人にしてみれば、好きだという気持ちがあり、その気持ちが満たされている、という状況があれば、それで充分すぎるくらいなのだから。人の心をなんとか理屈づけしようと躍起になるのは、常に当人の周囲にいる人たちである。とくにその対象となる人物が、これまで私たちが常識だと思っていた事柄や理屈からはみ出すような、良くも悪くも規格外な言動をとるような場合は、なおさらのことだ。

 今回紹介する本書『ららのいた夏』は、坂本ららと小杉純也のふたりの高校生がはぐくんだ、恋愛の行方を描いた青春小説であるが、このふたりの登場人物が何をどう思っているのか、という自身の心情については、一貫して距離を置くという筆致をとっている。つまり本書は、誰が何をしたか、どんなことを話したか、という視点のみで物語が進んでいき、私たちはその疾走感に乗って、一気に物語を駆け抜けていくような感覚を味わうことになる。そしてそうした本書の感覚は、何より走ることが大好きだというららの思いを言い表しているものでもある。

「坂本さんは、自分の好きなように、走ることしか、できない、人なんですよ」

 恋愛小説というのは、最低でもふたりの登場人物が必要であり、そういう意味では、坂本ららと小杉純也のふたりが主人公であることは間違いではないが、物語としてどちらに重点が置かれているかということを考えれば、そのタイトルが示しているように、本書は坂本ららの物語だということになる。そして、小杉純也が彼女とはじめて知り合ったときも、ふたりで親睦を深めていったときも、常に「走る」という行為がついてまわっている。つまり、坂本ららの物語とは、同時に「走る」物語でもあるのだ。そして小杉純也をはじめとして、その他の登場人物はもとより、読者である私たちにとっても、坂本ららという人物は、ひとつの大きな謎であり、また大きな魅力でもある。

 小杉純也が坂本ららと最初に出会ったのは、湘南鎌倉高校の運動会の種目のひとつであるマラソン――約五キロの長距離走においてであった。野球部の二年生でエースピッチャーでもある純也は、走ることも得意で、去年もぶっちぎりの一位という成績を残していた。そしてそれは、今年も同じことになるはずだったのだが、そんな彼の予想を裏切り、その独走を許さなかった人物が、一年生の女子である坂本ららだった。けっきょくふたりは同着一位という結果に終わったが、驚いたことに、彼女はどこの部活にも所属しておらず、しかし何年も前から走ることだけは続けてきたのだという。

「好きで走るってことは、好きな時に好きなように走りたいということで、だから、部活には向かない好きだと思うんだ。こう走れとか、これだけ走れっていわれて走るのはきらいなの。だから、一人で勝手に走っているのがいいんです」

 そのひとりのはずだった世界に、純也は彼女がいつも走っている逗子海岸のコースをともに走るということで、飛び込んでいく。いくら彼が野球部で、走りこみが重要であったとしても、ららのことが気にならなければわざわざそんなことをやろうとは思わないだろうし、ららにしても、もしそれまでの「一人で勝手に走」る世界に愛着があるのなら、純也のことは放っておいたに違いない。ようするに、そうしたふたりの言動が、そのままふたりのお互いに対する好意の表れでもあるのだ。ともすると本書の文章の疾走感に、ついつい読み飛ばしてしまいがちになるのだが、何かをやろうと思ったときに躊躇せずに、とにかく走り出しているというその演出は、まさに若い男女の青春小説向けのものであり、見事だというほかにない。

 その後、坂本ららはロードレースや駅伝、フルマラソンと、それまで一度も出場していなかった公式のレースに挑戦しては、プロの選手をもさしおいて怒涛の活躍を見せつけることになる。もっとも、そのたびに何らかのアクシデントに巻き込まれたりするものの、まったくの無名の選手とは思えないその人間離れした走りは、あっという間に町内はおろか、国じゅうの、さらには世界の注目の的にさえなっていく。ただ走ることが好きだという彼女は、それゆえにレースでいいタイムを出すことや、他の選手に勝つといった意識は皆無に等しく、それどころか走っている最中でもしょっちゅう笑ったり手を振ったりするばかりか、走りながら選手に話しかけたり、レース中に足を止めたりさえしてしまう。そしてそんな彼女の姿に、誰もが頭をひねらざるを得ないのだ。なぜ彼女は、あれほどの才能がありながら、あんなにちゃらんぽらんなのか、と。

 その疑問は、そのまま私たち読者がもつことになる疑問でもあるのだが、坂本ららにとって走るということが何を意味するのかと考えたとき、それこそが彼女のすべてだということに、私たちは行き着くことになる。彼女は走るのが好きだ。走ってさえいればごきげんだと笑う彼女にとって、人間関係もまた走ることをつうじて行なわれることなのだ。ひとりで走っているときには、そのことに気がつかなかった。だが、そこに小杉純也が飛び込んできた。ふたりにとってコミュニケーションとは、走りながら行なわれることであり、ひとりで走ることよりも、誰かと走ることの楽しさに、ららは純也の存在を通じて教えられたと言うことができる。だからこそ彼女は、たとえそれがトップクラスのアスリートであっても、そしてそのことをどれだけ咎められても、競争相手であるはずの相手と併走し、話しかけ、笑顔を向けることをやめようとしない。

「キャハハ」「デハハハ」といった、会話文のなかに直接笑い声の入ることが非常に多い文章ではあるが、それが他に何の含みももたない、ただ純粋なららの笑いを表現しようとしたものであると考えれば、妙にしっくりくるものがある。やがて純也がプロ野球選手としてスカウトされ、ららもまたこれまでの記録を次々と打ち破っていくという活躍をつづけるなかで、はたしてふたりの関係がどのような結末を迎えることになるのか、そして何よりも、ららの「走り」が私たちに何を残してくれることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.10.31)

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