【集英社】
『サウンドトラック』

古川日出男著 



 色盲という障害は、人間に当然あるべき能力の欠如ではなく、むしろそれ自体がひとつの能力である、という考え方がある。色盲の人は、見る対象を色彩の違いで認識することができない。だが、それは逆に言えば、色彩による認識という束縛から視覚が解放されている、ということでもあるのだ。彼らには、普通の人には見えないものを見ることができる。たとえば、動物や昆虫たちが生き残りのために発展させてきた「擬態」という能力は、その多くが色彩によるカモフラージュであるがゆえに、色盲の能力を持つ者には通用しない。だが、たとえば信号の色が区別できない彼らにとって、都会での生活は不自由きわまりないものとなってしまう。私たちが森の中で狩りをして生きていた頃は、たしかに必要な能力だったのかもしれないが、今となってはただの障害でしかない、ということだ。

 生き残る、ということ――思えば古川日出男の作品に登場する者たちは、私たちのように今ある社会ととりあえず折り合いをつけながら生きている人間とはどこか次元の異なる場にいて、それゆえに彼らの周囲をとりまく環境にとっては「異分子」のごとく染まらない、その社会からは浮いた存在として描かれることが圧倒的に多い。彼らは先天的に、あるいは後天的に何かを得たり、もしくは何かを捨て去ることで独自の世界を生きることになるのだが、そんな彼らにとって生きることとは「生き残る」ことであり、それゆえに彼らは時として世界と衝突し、しばしば世界そのものを破壊したり、自分の属する世界のなかに取り込んでしまったりする。著者の作品がラスト近くになって、どこか幻想的な雰囲気をもつようになるのは、そうした理由があるのではないだろうか。

 本書『サウンドトラック』という作品のなかで、著者は東京という都心を亜熱帯へと変貌させた。6月にして最低気温が35度、真夏になれば平気で気温が体温を上回り、熱帯雨林を思わせるスコールがしばしば河川を氾濫させる――ヒートアイランド現象が悪循環を生む、四季の消滅した文字どおりの「都会のジャングル」と化しつつある都心のずっと南、小笠原諸島のとある無人島に、時を別にしてふたりの子どもが漂着する。トウタとヒツジコ――まだ当然親たちの庇護のもとにあるべき環境から突如として放り出されたふたりの、生き残るための戦いを描くところから物語ははじまる。

 トウタのなかで、音楽は死んでいる。トウタにとって、耳に入ってくる音はたんなる空気の振動であって、そこに音楽とそれ以外の音とをへだてる境界線はない。音楽とは、人間が生み出した芸術であり、人間がその歴史の積み重ねによって築いてきた文明社会を象徴するものであるとするなら、トウタはその文明社会が要求してくるさまざまな束縛から解放された子ども、ということになる。彼には社会規範や常識といったものは通用しない。理性ではなく、あくまで生きるための本能で動く野生児の感覚を保ちつつ、トウタは成長する。

 ヒツジコのなかで、地震はつねに再現されている。トウタとふたりきりで生きてきた無人島を襲った大地震――これまで何物にも揺さぶられることのなかった、ヒツジコの心をはじめて翻弄した強い自然の力は、躍りという形をとって表現される。地震という天災以外にけっして揺さぶられることのない彼女もある意味、トウタと同じように既存の社会常識に染まることはない。彼女の内側から、外側へと解放されつつある、他人の内面に眠る感情を揺さぶり起こさずにはいられない躍りを探求しつつ、ヒツジコは成長する。

 ふたりは後に役所の人間によって発見され、父島で兄妹として庇護される。そして成長とともにふたりは別の道を歩みはじめることになる。

 本書はふたりがはじめて出会い、離れ離れになり、そしてさまざまな紆余曲折を経てふたたび東京都心で出会うまでを描いた物語である。だが、そこにはいかにもありがちな人間ドラマの介入する余地はない。そもそもそうした人間的感傷は、生き残るために生きてきたふたりにとっては無用の感情だ。物語が進んでいくと、ふたりの舞台は熱帯化していく東京都心へと移っていくが、東京都心にとって、ふたりの存在はさながら爆弾のように炸裂したと言ってもいいだろう。日本人の血を受け継ぎながら、日本人としてのあらゆる常識とは無縁の生を生きるふたりは、ますます増大してくるアラブ系外国人労働者と同様「異分子」であり、じっさいトウタの東京都心での生活の場は、不法滞在する「ガイコクジン」とともにある。生き残るために海を渡り、あらたな生活の場で巧みに変容しつつ、強かに生きていく「ガイコクジン」たちと、トウタはいわば同類なのだ。たとえば、そのときの状況によって男女の性をたくみに使い分け、かつての先祖が故郷の国で鷹匠であったように、都心で生きるカラスを従える鴉匠として生きるレニと。

 いっぽうに、自分や周囲を変容させつつ生きていく非日本人の勢力があり、いっぽうにそうした異分子を排除しようとする、それまでの価値観に固執する日本人の勢力がある。本書は別の角度から見れば、「変容」と「固執」という、相対する要素の衝突を描いた作品だとも言えるだろうが、気候そのものが大きく変化し、それまでなかったはずの熱帯病が蔓延しはじめている条件を考えるなら、勢いがあるのはおのずと前者のほうだろう。しかも、作者は『アラビアの夜の種族』で「物語の拡散と変容」を描いた古川日出男である。

 あたしはジシンを起こす。ひき起こすのです。
 連繋された力が皮膚を超えて滲みだしている。肉体の流動状態をヒツジコは夢見た。それは世界を根底から揺るがすだろう。滅ぼすだろう。

 本書は、それまで著者が書いてきたいくつかの物語の要素を盛り込んでおり、見方によっては複数の物語が同時進行していくような形となっているようにも見える。それら複数の要素の結合が、ひとつの物語として必ずしもきっちりとまとめられているとは言い難いのはたしかだが、逆にそれだからこそ、世界が変容していくときのダイナミズムを奔流のごとく表現できているとも言えよう。そしてその変容の中心に、トウタとヒツジコがいる。「変容」という名の地震を引き起こす要素をそなえた「異分子」としての存在が。

 音楽の死、舞踊という枠にとらわれない躍り――それらはいずれも、文字を基礎とする人間の文明の枠外にあるものであり、今はもう無用の長物と化した色盲の能力とよく似ている。「異分子」として生を受けながら、逆に「異分子」とみなす世界そのものを変容させていく物語の行方に、ぜひ注目してもらいたい。(2003.10.07)

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