【東洋経済新報社】
『数学嫌いな人のための数学』

小室直樹著 



 日本人というのは、とかく物事をはっきりさせることが嫌いな国民だ。いや、嫌いというのは言い過ぎかもしれないが、何が正しくて何が間違っているのか、ある物事に対して勝ち負けをはっきりさせること自体に、あまり重きを置かない傾向が強い。

 たとえば、物語における「勧善懲悪」のストーリー ――敵は釈明の余地のない完全な悪に属しており、正義の味方である主人公が、悪である敵を最終的には打ち滅ぼすというストーリーについて、その単純明快さ、誰が見ても間違えることのない、はっきりとした筋書きをいっぽうで認めながらも、しかしもういっぽうでは、そのあまりの単純化をどこか子供騙しのように思い、軽んじている部分があるのもたしかだ。物事はけっして虚構の世界のように単純ではない。悪人といっても必ずしも一から十まで悪いのではなく、そうならざるを得なかった何かがその背景にある、あるいは自ら信じるもののため、たとえば義を貫くためとか、弱き者を救うためといった理由で、あえて悪人でありつづけるなど、けっして物事を一義的に割り切らせない、複雑な事情をからませることを好む。

 だが当然のことながら、すべてにおいて白黒はっきりさせないことが正しいわけではない。たとえば所有の問題。ある物品が現在誰のものなのか、ということについては、是が非でもはっきりさせる必要があるだろう。でなければ、貸したものがいつまで経っても返ってこなかったり、勝手に売り払われたりといった暴挙がまかりとおってしまうことになる。アメリカ合衆国の他国に対する、まるで自らの「正義」が唯一絶対であるかのような振る舞いはけっして好ましいとは言えないが、かといって時と場合によって「正義」のあり方がコロコロと変わり、言っていることとやっていることが始終矛盾する、というのも大きな問題である。物事を白黒はっきりさせるというのは、私たちが思っている以上に単純でもなく、また容易なことでもないのだ。

 ところで、あなたは数学は得意だろうか。数学と聞くと、それだけで頭が痛くなるという方もいらっしゃるかもしれないが、もし上述の所有の概念が近代資本主義から生まれた、比較的新しいものの考え方であり、その根幹に数学の論理が生きているとしたら、むやみに数学を避けてばかりもいられまい。本書『数学嫌いのための数学』は、そのものズバリ「数学が苦手だという人に、数学を好きになってもらうための本」ということになるのだが、本書を読むと、数学という学問がどこから、何のために生まれ、そして私たちの生活にどれだけ密接なかかわりをもち、そしてさらに言うなら、日本人の数学嫌い、論理的な考え方を忌避する傾向が、この国にどれだけの損失をまねいているか、ということがわかってくる。多少気負いすぎているせいなのか、ちょっと感情がほとばしっているかのような表現が見られたりするが、基本的に物事に白黒はっきりさせることを目的に発展してきた数学が、この世界にあたえる影響の計り知れない大きさを知る、という意味では、またとない有望な一冊である。

 「方程式」という言葉は、数学だけでなく、「出世の方程式」とか「恋愛の方程式」とかいう具合に比喩的にも使われる。――(中略)――だが、数学の言葉を喩え話に使うのなら、「……には答えがあるのか」「果たして答えは見つかるのだろうか?」というような比喩に使ってもらいたかった。問題にとっては、実はこれが一番大切なことなのである。

 神ははたして存在するのかどうか、新航路は本当に実在するのか――ともすると答えなど見つからない、あるいはあっても導き出せないかもしれない命題を前に、キリスト教圏の人たちは果敢に挑戦していった。なぜそんなことが可能だったのか、ということについて、本書では数学の論理が諸科学の基礎としてあったからだと説いている。
 数学とは、ほぼ唯一といっていい、物事が一義的に決定される学問である。数学の世界において答えが存在すると証明されれば、それは絶対なのだ。どちらでもない、ということはないし、またどちらかの中間である、ということもありえない。この事実がどれだけ絶大なものであるかは、たとえばある化学実験において100回同じ実験を繰り返し、まったく同一の反応を引き出してみせても、なおそこに「絶対」という表現を置くことができない、ということを考えてみれば充分だろう。101回目に違う結果が出る、という可能性をけっして否定できない化学実験とは異なり、数学だけが必ず同じ結果を引き出すことができるのだ。そしてその数学の論理が、宗教や法律、経済、科学といったさまざまな分野につながっていくことを知るにつけ、それまであくまで知識としてしか生きていなかった証明問題や、必要条件・十分条件、方程式といったものが、はじめて意味のあるものとして私たちの前に立ち現われてくることになる。

 本書の後半では、数学と経済学との関係、とくにケインズ理論について述べていたりして、さすがにそのあたりの部分は難解ではあるが、たとえばなぜ日本と韓国・中国との関係が良くならないのか、なぜマルクスの社会主義経済が破綻したのか、なぜ日本の不景気がよくならないのか、などといった、いかにも複雑難解だと思っていた問題が、数学理論の方面から単純明快な「解」をあたえられているのを知るのは痛快でさえある。一義的な解答しか存在しない、単純明快であるがゆえに絶大な威力を発揮する数学――その論理は、ときに暴力的に何かを断じてしまう危険性はあるが、そうした強引さがなければ、これまでの考えを覆していくような新しい発見、新しい発想が生まれてくることがなかったのもたしかなのだ。

 著者は「数学は神の論理」だと断じている。かつて古代イスラエル人は、嫉妬深い唯一神を人類の滅亡から守るために論理学を発達させ、そこから数学のための論理へと収束していったということであるが、何かをはっきりと証明する、白黒つけるということは、その選択に対してすべての責任を負う、ということでもある。そしておそらく、今の日本を動かしている人たちにもっとも欠けているのが、何かをきっちりと決断するための論理的思考能力なのだ。

 ちょっと前に「分数の計算ができない大学生」という記事が世間をにぎわせたことがあるが、本書の存在が、私たち日本人がとかく忌み嫌う論理的思考、数学というものを見直すきっかけとなればいいと心から思う。(2004.05.15)

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