【河出書房新社】
『スタイリッシュ・キッズ』

鷺沢萠著 



 尾崎豊という歌手のことを、ふと思い出す。
 私が知っている彼に関する事柄など、ほんのわずかなものでしかない。そして、私は彼のファンだと公言できるほど彼の歌について知っているわけでもないし、そもそも音楽自体に深いなじみがあるわけでもない。だが、彼の歌にはなぜか、一度聴くと年月を越えていつまでも耳の奥にこびりつくような何かがある。とかく人を縛りつけ、押さえこもうとする世間の常識や社会、組織といったものに対するいらだちや閉塞感、このままでは自分が自分でなくなってしまうのではないか、という焦り、都合のいい大人になることへの嫌悪や不安、そして、異性に対する打算のない、燃えるような恋心――そういった、若い人たちの心の中でぐるぐると渦巻いている混沌とした気持ちを表現した歌詞が、心の叫びをそのまま吐き出しているかのような、熱くせつない彼の歌声と結びついたとき、妥協することを拒み、何より自分の心のままに感じ、行動する今という一瞬を大切にするあまり、生き急ぐようにして死んでいった彼の人生は、私にとって最高にかっこいいものとして感じられたのを覚えている。

 かっこ良く生きたい、と思う。服装や髪型といった外見ばかりでなく、内面においてもかっこ良くありたい、と。どんなことにも動じることなく、どんな権力にも臆することなく、常に自分の心に自信を持ち、自分の行く道をまっすぐ突き進むことのできるような、それこそ尾崎豊のようなかっこ良さを身につけることができたら、どんなに素晴らしいだろう。だが、同時に自分はけっして尾崎豊のようにはなれない、ということも充分に承知している。理想と現実――その間に横たわるギャップのあまりの大きさに戸惑い、悩み、迷う若者たちの姿が、本書『スタイリッシュ・キッズ』の中にはある。

 恋というのは、小さな生命にも似ている。初々しく、躍動感に溢れ、それに関わる人たちの心に新鮮な驚きや興奮をもたらしてくれるものであると同時に、生命にとって生と死が分かちがたく結びついているように、いつかは終わりを迎えてしまうたぐいのもの――本書に登場する鍵野久志と窪田理恵は、程度の差こそあれ、二人とも「いつか来るはずの終わり」というものを、心のどこかでは認識していたしていたように思えてならない。どこか投げやりで、自分を含めたすべてがどうなろうと関係ない、というような態度を見せていた理恵の姿に、自分の心の中でくすぶっているものと似たような何かを感じ取った久志は、高校三年の夏にはじめてその姿を目にして以来、その一年後に吉留の紹介で知り合うまでのあいだ、ずっと心のどこかで彼女に惹かれている自分に気づくことになる。そして、その出会いが、理恵と付き合う直接的なきっかけとなる。

 恋愛のはじまるきっかけは、じつに多彩だ。自分にないものを持っている人へのあこがれ、自分と似たような雰囲気を持つ人への親近感、あるいはいわゆる一目惚れ――それはともかくとして、久志と付き合いはじめた理恵の変化は、目に見えるほど劇的に展開する。本書の中には、理恵が久志のことをどんなふうに思っているか、といった表現はほとんど存在しない。にもかかわらず、久志のことを少なからず慕っている理恵の気持ちが不思議なくらいよく伝わってくるのである。本書の素晴らしいところは、他の安っぽい恋愛小説のように、「好きだ」「愛してる」といった直接的な言葉や、それに類するお互いの心理描写などを極力排除し、ちょっとした会話の連続や何気ないしぐさ、息抜きのように差し挟まれる情景描写などを巧みに組み合わせることで、ふたりの心情の微妙な揺れを表現している点にあるだろう。あるいは、ふたりの関係には、ことさらお互いの気持ちを確かめ合うような言葉は不要、ということなのかもしれない。それは同時に、ふたりの仲がそれだけしっくりきている、ということを意味する。

 恋をしたことのある人ならわかると思うが、実際に人を好きになり、相手に自分のほうを振り向かせたいと考えたとき、そこにはちょっとした駆け引きや計算といった泥くさい要素が必ずからんでくるものである。あるいは相手を自分のものにしたいがために、なんらかの妥協が必要なときだってあるかもしれない。だが、本書に出てくる久志と理恵の間に、そのような泥くさい感じは見当たらない。それは前述したとおり、最高にうまくいっている、ということなのかもしれないが、にもかかわらず、いや、だからこそ、怖い。ちょっとしたきっかけで脆く崩れてしまいそうな一種の危うさ――最高にうまくいっているはずの二人の仲に、そんな危うさがちらちらと見え隠れしているのは、いったいどういうことなのだろう、と考える。

 ――あたし、ほんとに年齢取りたくない。本書のなかで、理恵がそんなふうに呟く場面がある。それは、この最高の瞬間が永遠につづけばいいのに、という理恵の願いでもある。しかし、時は無常にもすべての人間に平等に過ぎていくし、世界は絶え間なく移り変わっていく。その事実は、ときに若い人たちにはとんでもなく不条理なものとして映ることがあるものだが、本書を読んで私が尾崎豊のイメージを思い浮かべたのは、あるいはこうしたところにあるのかもしれない。どうして人は、なりたいものになることができないのか。どうして人生は自分の思うとおりにいかないのか。あと何度自分をだまし、妥協しつづければいいのか。そんなことを繰り返してまで、なぜ大人にならなくてはならないのか。そもそも自分は何を考え、何をしたいのか……。

 どんなに尾崎豊にあこがれても、人は尾崎豊になることはできない。それがわかっているからこそ、せめてそのスタイルだけでも真似ようと試みる。まるで、そうすることによって少しでも彼に近づくことができるのだと言わんばかりに。あるいは、人が成長するというのは、そんなふうにいくつもの借り物のスタイルをとっかえひっかえ取り替えながら、その中から自分だけのスタイルをつくり上げていくことなのかもしれない。久志と理恵は、それぞれどのようなスタイルに憧れ、どのようなスタイルを持ちたいと願っていたのだろうか。(2000.03.18)

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