【竹書房】
『パイの物語』

ヤン・マーテル著/唐沢則幸訳 



 私たちはよく「真実を知りたい」といったことを口にしたり、「報道の真実」とかいうことを耳にしたりするが、はたして「真実」とは何なのだろう、とふと考えることがある。

 物事の真実、というからには、それはたったひとつの正解を指し示す言葉であることはわかる。ミステリーで言うなら、誰が犯人で、どのようにして殺人事件が起きたか、ということになるし、それはただひとつの回答しか存在しえない。たとえ、あらゆる物証が犯人がBであることを指し示していても、探偵役を担う人物は、ほんのわずかな証拠から論理を引き出し、あるいは深い洞察力による推理を展開し、まったく別のAという人物が犯人だという「真実」を導き出す。だが現実世界において、探偵役のような都合のいい人物は存在しない。結果として、まったく無関係であるはずのBが犯人に仕立て上げられてしまう、ということが現実にはときどき起こったりする。

 じっさいには別の真実があるはずなのに、私たちはしばしばそれとは異なる事柄を、間違いのない真実だと思い込んでしまう。それが、大部分の人たちの共通認識となっていたり、権威ある人物のお墨付きがついていたりする場合はなおさらのことだ。私たちはあらゆる事柄において、専門家並みの知識を有しているわけではないし、あらゆる事柄について、その真実を見極めるだけの洞察力もなければ、またそれだけの時間も持ち合わせていない。そんなふうに考えると、真実というものは、けっきょくのところ「多くの人によって信じられていること」にすぎない、ということになる。そして、もし真実がそういうものであるとすれば、真実とは一種の宗教のようなものであり、またその人が何を信じているのか、ということが、相手を判断する重要な基準ということになる。

 仮にトーキョーを持ち上げて逆さに振ってみれば、ぼろぼろ落ちてくる動物の数の多さに目を見張ることだろう。それこそ土砂降りどころの話ではない。

 今回紹介する本書『パイの物語』は、インドからカナダへ向かう途中、太平洋上で沈没した貨物船ツシマ丸の唯一の生存者であるピシン・モリトール・パテルの、およぞ227日にもおよぶ海上漂流生活のことを綴った作品、という体裁をとっている。本書の冒頭には「覚え書きとして」と銘打って、この作品の著者が今回の物語と出会った経緯と、独自の取材や情報収集をつうじて、「まさに神を信じたくなる話」という確信のもと、本書を書きあげるに到ったことを告白するのだが、ただでさえ信じがたい話であるうえに、救命ボートにいたのがピシンだけでなく、三歳の成人したベンガルトラであることを考えれば、それこそ稀有というべき話であることに、何の異存もないだろう。

 体重がゆうに200キロを超えるというベンガルトラと、当時まだ少年にすぎなかったピシン・モリトール・パテル――通称パイ・パテルが、いったいどういう因果で同じ救命ボートに乗り合わせることになったのか、そして200日以上もの極限状態のなか、どのようにして共存し、生きのびるに到ったのか。物語の題材としては、それだけでも魅力的な要素をもつ本書であるが、メインともいうべき海上漂流生活のことが書かれるのは、全部で三つの章で構成されるなかの、第二章の部分であって、冒頭の第一章については、パイの幼少時代の思い出話や、宗教や動物学にかんするちょっとした薀蓄が延々と語られていくことになる。

 のちにインド共和国に加入することになるポンディシェリで、動物園の経営をしていた父のこと、その動物園で出会った数々の動物の思い出や、動物がもつ縄張りと動物園との関係について、自分がパイ・パテルと名乗るようになった経緯、ヒンドゥー教だけでなく、キリスト教やイスラム教にも興味をもつようになった理由から、最終的にはインドの政情不安を理由に、カナダのトロントに移住することを決意するにいたるまでを綴ったこの第一章は、ともすると冗長で余計なもののように思えてくるのだが、じつはこの章のなかで書かれたさまざまな知識が、後の海上漂流におけるサバイバルへの知恵へとつながってくることが、本書を読み進めていくとわかってくる。それは逆に言うなら、ピシンが体験することになる苛酷な漂流生活が、そうした長い前振りなしには到底信じられないような出来事であることを物語ってもいる。

 トラとともに太平洋上を漂流するという奇妙な物語を、いかに事実であるかのように演出するかという点は、本書を語るうえで欠かすことのできない要素のひとつであるし、そのためのさまざまな配慮が見て取れる。ピシンという人物がまるで実在の人物であり、著者はそれがあたかもノンフィクションであるかのような体裁をとっているのはもちろんだが、何より圧倒されるのが、トラとともに過ごすことになる救命ボートでの緊迫した日々の、そのリアリティだ。

 移動できる範囲も、食糧や水といった必要最低限のものさえ事欠くような極限状態にある人間や動物が、はたしてどのような行動をとるものなのか――もともと菜食主義者であったはずのピシンが、時とともに食べられるものは何でも口にし、そのためにウミガメや魚などを積極的につかまえるようになるといった変化、ときには嵐に翻弄され、ときには何日も食べる物がないという状況に苦しみながら、それでもなおリチャード・パーカーと名づけられたベンガルトラの存在が、自分がまだ人間であり、その理性でもって自分が立場的に上であることをトラに認識させるべく努力させるという状況を経て、しだいにやっかいなはずのトラの存在が、他ならぬ自分が自分であるということを保つための、最後の拠り所となっていく様子は、彼が助かることがわかっていたとしても、なお読者を物語のなかに引き込むだけの力をもっている。

 だがじつのところ、そうしたリアリティの効力は、漂流生活の後半になっていくにつれて少しずつ薄れ、しだいにどこまでが現実でどこまでが妄想なのかといった境界線が曖昧なものとなってくる。太平洋上で自分と同じように漂流していた人との出会いや、ミーアキャットが住む不思議な浮き島の話などがそれにあたるのだが、それこそファンタジーのような出来事が語られ、それが真実なのかどうか疑わしくなってくるようなときに、私たちはこの話が、あくまでピシンの口から語られていることであり、またその体験をしたのが彼ただひとりである以上、その真偽をたしかめるすべなど、そもそもありはしないのだということにはじめて気がつくことになる。そしてそれは、この話自体がまぎれもない真実であろうと、あるいは著者の虚構であろうと、同じことなのだと。

 自分の見聞したものが、ほんとうに実在したものなのかどうかをたしかめる方法のひとつに、自分以外の他者にもそれが見たり聞いたりできるかどうか確認させる、というのがある。私たちはそうした共通認識を広げていくことで、自身の周囲にある世界の実在をとりあえずは受け入れることができるのだが、本書におけるピシンのような立場に置かれたとき、自身の体験の真偽を判断するにはどうすればいいのだろう。じっさい、それを裏づけるかのように、本書の第三章では、ツシマ丸沈没の原因調査をしていた日本人によるピシンへのインタビューにおいて、彼らは当然のようにそうした話の内容に疑問を呈している。そしてそんな彼らに対し、ピシンはまったくもって意想外な話を語って聞かせることになる。

 本書は、たとえば大きな苦難を乗り越えて成長する少年の物語とか、あるいは苦難をともにした猛獣との友情の物語とか、そんなありきたりな話で終わるようなものではなく、もっと本質的な部分を鋭くついてくるような何かをテーマとしている。はたして、本書を読み終えたとき、あなたのまわりに広がっている世界は、どんなふうに見えることになるのだろうか。(2009.11.04)

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