【国書刊行会】
『夜毎に石の橋の下で』

レオ・ペルッツ著/垂野創一郎訳 

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「お前たち人の子は、なんという哀れなものだ。お前たちの生は悩みと苦しみに満ちている。そのうえなぜ愛などに煩うのだ。分別を失い、心を惨めにするだけだというのに」

 今回紹介する本書『夜毎に石の橋の下で』について、簡潔な言葉で説明するのは難しい。表題作を含む十四の短編によって構成されている本書は、いずれも十六世紀末から十七世紀初頭のプラハの街を舞台としたものであり、またその世界のなかでは、神の奇跡や魔法めいた現象、あるいは錬金術や人ならざるものたちの存在といった神秘的な要素が入り混じって、たんなる歴史小説というよりは、むしろ幻想文学的な雰囲気をかもし出す作品が多い。その舞台背景的なものでとらえるのであれば、本書はプラハという街、それも、神聖ローマ帝国の首都として栄えたひとつの街の物語という位置づけも可能である。だが、本書に収められた短編は、ひとつの作品として完全に独立したものではなく、それぞれがある大きな因果によって結びつけられていることが、本書を読み進めていくことによって見えてくる。

 たとえば、本書の最初の短編である「ユダヤ人街のペスト禍」では、ユダヤ人たちの住む街の一角でペストが流行し、幼い子どもばかりがその病に冒されてしまうという事態に対して、ある高僧のラビがその原因を探り、対処を施すというものである。まるで狙いすましたかのようなペストの発生といい、ユダヤ人墓地に出現した子どもの幽霊に直接話を聞くという方法といい、どこか現実離れしたような展開は、この短編にかぎらず本書全体を貫く大きな特長のひとつであるが、それ以上に、このラビの施した「ある行為」が謎めいている。結果としてペスト禍は終息するのだが、その行為の意味するところと、なぜペストが消え去ったのか、その因果関係についてこの段階でははっきりとしないのだ。そして、このきわめて象徴的な短編をひとつの起点として、その後につらなる短編は、おもに二種類の色づけがなされることになる。ひとつは、ラビが「ある行為」を施したそもそもの要因は何だったのかということ、そしてもうひとつが、「ある行為」を施した結果どうなったのか、というものである。

 こうして本書に収められた短編は、たんなる独立した作品群から、ひとつながりの物語としての体裁をとることになる。ただし、その時系列については統一がなされていない。それはつまり、本書を読み進めていくという行為において、物語内の時間がバラバラになっていることを意味する。最初の短編においてラビが施した「ある行為」の因果――その原因と結果が交錯するように並べられているそれぞれの短編が、科学と個人の権利が隆盛を極める近代ではなく、まだ宗教が大きな意味と力を有し、個人の運命を左右していた時代の物語であることの意味は、存外に大きい。

 たとえば、「横取りされたターレル銀貨」における、若きルドルフ二世が出くわした赤毛の巨人と、そんな彼らが「ひとりのユダヤ人のもの」だと言う金銀財宝――彼はそこから一枚の銀貨を盗むものの、その本来の持ち主の手に返されるまで災難がつづくという予言からは逃れることができなかった。「皇帝の食卓」では、ペトル・ザールバはまったく意図しないままに一族の掟を破ってしまい、一六二〇年のボヘミア蜂起軍の敗北という歴史とつながっていく。「犬の会話」では、カバラの秘術によって犬の言葉がわかるようになったある男の幸運と不運が書かれ、「ヴァレンシュタインの星」は占星術のめぐりによって、まったく意図しないままに危機を脱する男の物語である。いずれの物語においても、何か大きな意思のようなものによって、人の人生や運命がすでに定まってしまっている、という印象が強く打ち出されているのだが、そうした運命に大きく翻弄される人物としてとくに特徴的なのが、神聖ローマ皇帝となるルドルフ二世と、ユダヤ人の豪商であるモルデカイ・マイスルのふたりである。

 金は彼に迫った。自分の主人としてマイスルを望み、他の誰にも仕えたがらなかった。――(中略)――金は彼を愛した。金は彼に服従した。しかし彼が金の呪縛を解き、金と手を切って世間に置き去りにしたとき、金は何をはじめるだろう、何を引き起こすだろう――。

「横取りされたターレル銀貨」における、金銀財宝の主として選ばれたマイスルであるが、そんな彼の生涯が人として幸福であったかどうかという点については、必ずしも幸福とは言いがたいものがある。というのも、妻のエステルには先立たれ、最終的には一文無しに近い状態で死を迎えることになるからだ。同じように神聖ローマ帝国の皇帝という、ある意味で最高権力者の座に収まるルドルフ二世についても同様だ。彼はけっきょく正式な妻を娶ることなく、芸術品の収集に金を放蕩して国の財政を圧迫させたあげく、錬金術という怪しげなものにまで手をつけるようになってしまっている。そしてここでも重要になってくるのは、なぜそうなったのかと、それからどうなったのかという因果関係の妙である。

 人には良くも悪くも欲望というものがある。そしてその欲望は、ときに人の思慮分別を狂わせるものでもある。おのれの欲望に従った結果として、どのようなことが引き起こされるのかは、神ならぬ人の身では推し量ることのできないものでもある。本書における時系列がバラバラになっている構造は、そのまま人としての視野の狭さ、その限界を象徴する。私たちが本書から読み取るのは、その思いもかけない因果のつながりであり、それはまさに数奇な、としか言いようのないものでもあるのだが、逆にだからこそ、そんな運命のなかでほかならぬ自分のものと言える欲望に身を焦がし、感情を高ぶらせていく姿はとても人間らしい。

 そして、ここで言うところの欲望には、特別な名称がつけられる。それは「愛」である。天使が言うところの「分別を失い、心を惨めにするだけ」の愛――だが私たちは、愛がたんにそれだけのものではないことをよく知っている。それはときに、高僧のラビですらも心を動かされてしまうほどの、大きく強い感情なのだ。

 夜毎に石の橋の下で出会うことになる男女の思いは、はたしてただの夢幻にすぎぬものなのか、あるいはそれこそが真実の愛と言うべきものなのか。そしてその不可思議な運命に導かれて、複数の短編によって繰り広げられるこの物語が見せるのは、はたしてどのような世界なのか――古のプラハと、神からの富によって築かれていく現実と幻想の世界をぜひ楽しんでもらいたい。(2013.05.03)

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