【ベストセラーズ】
『聖徳太子は蘇我入鹿である』

関裕二著 



 これまで私が目にしてきたタイトルのなかでも、とくに本書『聖徳太子は蘇我入鹿である』というタイトルほど、インパクトという点で強い印象を残すものは、他にはなかなか見当たるものではないだろう。なにしろ前者は十七条の憲法や冠位十二階などを制定して日本の律令制を確立し、さらに遣隋使などの外交の推進、仏教の積極的な導入といった点で多くの偉業を残したとされる聖人であり、いっぽう後者は天皇家をないがしろにした独裁者、自分の推す皇子を天皇に据えるために、邪魔となった山背大兄皇子をはじめとする上宮王家を滅亡に追いやったあげく、大化の改新によって成敗された極悪人である。何をどう考えても、この正反対のふたりを同一人物と見なすべき要素はどこにも存在しないのだが、著者はまさに、このふたりが正反対の位置づけにあること――あまりにも善と悪という図式にはまりすぎている、という点に疑問を投げかけている。そしてこの疑問は、そのまま古代日本の正式な歴史書であるとされる『日本書紀』の神話にもあてはまるものである。

 ここにはっきりと、聖徳太子と蘇我氏(とくに入鹿)との間には、単純に図式化できる関係がある。その図式は、天孫族と出雲王朝とのあいだがらにもよく似ていて、
 聖徳太子=聖者、天皇家、被害者
 蘇我入鹿=悪人、一豪族でありながら王位をねらう加害者
 となり、
 アマテラス=聖徳太子
 スサノオ=入鹿
 ともいえそうである。

 本書は大きく四つの章に分かれており、第1章では、『日本書紀』をはじめとする文献において聖人化されているはずの聖徳太子の偉業が隠されていたり、悪人として暗殺された蘇我入鹿に対して、後の人々が入鹿の怨霊を恐れているようなそぶりを見せているという不審な点を発端に、聖徳太子の死や入鹿による上宮王家殺害事件など、私たちがこれまであたりまえだと思っていた事実について、多くの疑問点があることを指摘、第2章では蘇我氏が敵対し、滅ぼしたとされる物部氏、しいては出雲王朝と、じっさいには深いかかわりがあったこと――物部氏も蘇我氏も、じつはスサノオを祖とする出雲王朝から出た豪族であったことをあきらかにし、それゆえに蘇我氏につらなる聖徳太子もまた、大和王朝よりも出雲王朝のほうに属する立場にあったと述べている。

 そして第3章では、いよいよ聖徳太子と蘇我入鹿とを結びつけることになった根拠にせまることになるわけだが、ごく正直な感想を言うなら、聖徳太子と蘇我入鹿が同一人物であるという本書の説の核となる部分は、非常に細く頼りない、それこそ吹けば飛ぶような小さなほころびの指摘でしかない。それは、『日本書紀』自身がもつ複雑さ――たとえば、同じ人物にいくつもの違った名前がつけられている、といった複雑さや、本書のなかでも指摘しているとおり、その内容にも多くの問題点をはらんでいるせいもあるだろう。ただでさえ複雑怪奇な『日本書紀』が、じつは時の朝廷にとって都合の悪い歴史をたくみに隠蔽している可能性があり、それ以外の文献のなかに、その真実を伝える隠されたメッセージや暗号がある、という形で展開していく本書の論法は、まるで暗号を解くための暗号を模索していくようなところがあって、意地悪な言い方をするなら、まず仮定ありきで論説を組み上げているところがあるのも事実だ。

 だが、おそらく多くの文献を照らし合わせることで、ようやく見出すことができたその小さなほころびが、小さく頼りないものであるからといって、あるいはなんら実質的証明能力のない状況証拠の積み重ねにすぎないからといって、本書に書かれたことのすべてがトンデモ本として一笑に付すべきものであるか、といえば、けっしてそんなことはない。むしろ、とかく謎の多い人物であり、架空の人物だとも、じつは推古天皇だとも言われている聖徳太子の正体について、ほんの小さなものではあれ、ある特定の人物と結びつける線でつなぐことができた、ということこそが、何より本書の大きな偉業だと言えるだろう。

 これは私の読書能力のいたらなさに尽きるのだが、私にかろうじて理解できたことは、『日本書紀』において、幼い聖徳太子とともに物部氏――蘇我氏の仏教推進に反対していた勢力――と戦った蘇我馬子の長子に、蘇我善徳という名前の人物がいて、彼がどうやら聖徳太子のモデルとなった可能性がある、ということだけである。そして、もし本当に聖徳太子が蘇我入鹿である、ということであれば、私たちが聖人として知っている聖徳太子は、じつは架空の人物として『日本書紀』が捏造したことになり、そのことで彼らの人物相関図にさまざまな矛盾が生じることになる。たとえば、蘇我入鹿の父は蘇我蝦夷であり、彼は蘇我馬子の息子ということになっているのだが、もし蘇我善徳が入鹿と同一人物ということになると、蘇我蝦夷もまた聖徳太子と同様、架空の人物であるか、その続柄が間違っている、ということになってしまう。それとも、蘇我蝦夷=蘇我馬子ということなのだろうか。

 もし蘇我入鹿=聖徳太子を証明するためには、本来なら聖徳太子がそもそも架空の人物であること、また蘇我蝦夷が本当は何者であるのかなど、他にも証明してみせなければならないものがごまんと出てくることになる。だが、本書では蘇我入鹿=聖徳太子という大胆な論を展開するにあたって、では真実の人物相関図がどういうものであったのか、また『日本書紀』においてどの人物関係が偽物であるか、あるいはどの関係にどんな食い違いが生じているか、といった細かいところまではっきりとさせているわけではないし、著者自身もまえがきで述べているように、『日本書紀』の内容をいっさい否定することが本書の目的ではない。そもそも、年代にすれば考古学にも匹敵する古い時代のことである。葬り去られた真実のすべてをあきらかにすることなど、不可能に近いことだ。そういう意味で、本書のタイトルのインパクトにあまりにもとらわれすぎると、逆にその本質を見落とすことになりかねないのである。

 本書において重要なのは、蘇我入鹿=聖徳太子という説を証明してみせることではなく、むしろ「大化の改新」という歴史的イベントを正当化するために、蘇我入鹿という人物が不当に貶められている可能性があること――彼を悪人とし、聖徳太子を聖人化することで、闇に葬られた真実があるのではないか、という著者の直感にもとづく指摘にこそある。

 歴史は人間がつくり出すものであり、そのつくり出されたもののなかに、善と悪が含まれて、その両面を見ることによって初めて真実の、そしてより生身の姿が表われてくるものと確信している。

 高橋克彦の『火怨』を読んでもわかるように、基本的に歴史というものは勝者が語るものである以上、それが真実の姿を映し出すものではなく、あくまで勝者にとって都合のいいものでしかないことを、私たちはもっと自覚すべきである。蘇我入鹿と出雲王朝との関係を浮かび上がらせ、歴史の神話のなかに封じられてしまったもうひとつの王朝――もしかしたら日本の天皇として君臨していたかもしれない王朝の存在に光をあてた著者の業績は、その説の真偽はともかくとして、非常に勇気あるものとして評価すべきであるだろう。少なくとも、『日本書紀』を日本の正史としてうのみにするには、あまりにも多くの問題点が算出されるという事実だけは、間違いのないことなのだ。(2005.12.15)

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