【河出書房新社】
『スタッキング可能』

松田青子著 



 今回紹介する本書『スタッキング可能』の著者、松田青子という名前を目にしたときに、私がまず思い浮かべたのは、往年のアイドルである「松田聖子」という名前だった。松田青子と松田聖子、こうして並べてみるとじつによく見た名前である。しかも「青」は「せい」とも読むことができる。青春の「せい」だ。この名前が本名なのかペンネームなのかはわからないが、もしペンネームだったとしたら、著者はきっと松田聖子との連想をあえて意識してそんな名前をつけたのだという確信がある。もっとも、松田聖子が清純派アイドルだとするなら、松田青子はいかにも青臭い青春をひきずっている、ちょっとくたびれた大人というイメージがあるのだが、こうした他者に対するイメージは、本書を読み進めていくことで私が勝手に作り上げたものでしかない。そして、こうした他者へのある種のイメージの押しつけと、その対極にあるまぎれもない自分自身とのあいだに生じる摩擦が、本書のテーマにもなっている。

『わたし』は絶対それが普通だって思わない。『わたし』は絶対おもねらない。だまってずっと、おかしいって、馬鹿じゃねえのおまえらって、心の中でくさし続けてみせる。――(中略)――そのために、誰にも侵されない難攻不落の『わたし』をつくる。会議室にあるみたいなスタッキング可能のイスを重ねてバリケードをつくる。

(『スタッキング可能』より)

 上述の引用を参照するかぎりにおいて、表題作である『スタッキング可能』の語り手は二重鍵括弧でくくられた『わたし』という人物である。だがこの一人称の語り手は、作品内における登場場面が極端に少ないうえに、引用の内容とは裏腹に没個性的である。彼女は一人称として登場はするが、およそ物語上の個性的なキャラクターというよりは、むしろ三人称的な位置づけにある。言ってみれば神の視点の持ち主としての役割である。もっとも、彼女は神様ではないし、登場人物すべての心の内を見通せるわけでもない。彼女が見通せるのは、せいぜい物語の舞台となるビルの内部くらいのものであり、その視点もあくまで彼女の主観という名の偏見が混じっている。

 だが、彼女のおよそ没個性的な立ち位置――つまりビルのなかで働いている人たちにとって、彼女が何者なのかはどうでもよく、ただ「ビルを掃除する人」という、他の誰が代わりになっても一向にかまわない存在でしかないという没個性的な立ち位置ゆえに、本来であれば含まれているはずの主観という名の偏見が、その一人称的な視点からはこのうえなく希薄なものとなっている。一人称で語られているにもかかわらず、まるで三人称であるかのように話が進んでいくという誤解は、当然のことながら著者の意図によるものである。なぜならこの構造は、自身の主観が世界標準であるという、私も含めて多くの人たちがともすると陥ってしまいがちな過ちを強調するための手段となっているからだ。

 表題作を読み進めていくとわかってくるのだが、およそ語り手だけでなく、すべての登場人物が抽象的な印象で書かれている。そのもっとも典型的なのが、登場人物たちの名前である。彼らは常にアルファベットと漢字一文字の組み合わせ――A山とかB田――で呼称されているのだが、章が代わるにつれてその呼び方が微妙に変化していく。A山はA村になり、B田はB川と呼ばれる、といった具合である。しかも、A山とA村、B田とB川が同一人物なのかどうかは判然としない。そうであるようにも思えるし、そうでないとしてもおかしくはない。曖昧でややこしいことこのうえない表題作であるが、それも『わたし』の主観が隠された擬似三人称視点であることを考えれば納得のいくことである。つまり語り手にとって、彼女の働くビルで出会う人たちは、相手が自分という人間に対してそうであるように、誰もが似たような人物のように映っており、また自分の主観による、自身の勝手な人物像をあてはめている、ということである。

 どこかのフロアからCの声が聞こえた。どのCが言ったんだろう。何人もいるからすぐにわからない。まあ、どのCもだいたい言うことは同じだから、どのCでもいいだろう。どうしても同じようなキャラクターになってしまう。

(『スタッキング可能』より)

 松田聖子を「清純派アイドル」だと私は述べたが、それは私が子どもだった当時のことであり、年齢を重ねて成熟した今の松田聖子にその印象はもはやあてはまらない。だが、まぎれもない「清純派アイドル」として売り出していた当時だって、そのイメージはマスメディアをはじめとする多くのファンによって作り上げられたものであって、ひとりの人間としての松田聖子――彼女自身がこうだと思っている人物像とかならずしも一致しているわけではない。そう、私たちは「まぎれもない自分自身」というものをことのほか大切にしながらも、そのいっぽうで自分が他人からどのように思われているか、どのように見られているのかをことのほか気にかけてもいる。

 たとえば、化粧などがそうだ。世の女性の多くは化粧をする。その行為にどのような意味をもたせているのかは人それぞれではあるが、たいていは衣装やアクセサリーと同じく、自分を着飾るためのものである。相手に自分をより良く見せたい、という行為に嘘はないのだろうが、本来あるべき姿を覆い隠すという意味では、化粧は自分を偽る行為だとも言える。「全国地域婦人団体連絡協議会」、通称「ちふれ」の活動を書いた『ウォータープルーフ嘘ばっかり!』『ウォータープルーフ嘘ばっかりじゃない!』は、そのあたりを突いている作品であるが、はたして彼女たちはウォータープルーフの効能に憤っているのだろうか、あるいはウォータープルーフなどのコスメ品で自分を飾り、本来の自分の姿を隠そうとしている姿勢に憤っているのだろうか、と思わずにはいられない。

 自分がこうありたいというまぎれもない自分自身を貫くために、他人にどのように思われようが頓着しないという思いがあり、他人にこう見られたいという願望ゆえに自分を着飾り、演じていこうという思いがある。同じように、ある人間に対して自分が思い込んでいるイメージがあるいっぽうで、その当人が貫きたいと思っている自分のイメージがある。自分と他人、主観と客観がたくみに入り混じり、なかばカオスのような様相を呈している本書を、はたしてあなたはどのように読み解くことになるのだろうか。(2014.01.24)

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