【講談社】
『スプートニクの恋人』

村上春樹著 



 過ぎ去ってしまった時間はけっして呼び戻すことはできないし、その手を離れてしまったものは二度と取り返すことはできない。仮に取り戻すことができたとしても、それはけっして以前と同じものではありえない――これまでの、けっして長いとは言えない人生の中で、それでも少なからぬ時間と空間を共有し、そして別れていった数多くの人たちのことを、ふと考える。彼らは今、どこで何をしているのだろうか。不思議なことに、そんな彼らのうちの何人かとは、もう二度と会うことはないだろう、という確信めいた思いが心のどこかにある。人それぞれが持っている人生という名の軌道――その軌道はその人固有のものであり、けっして他の誰かと共有することはできない。人と人との出会いというのは、本書『スプートニクの恋人』にも書かれているように、それぞれの軌道を持つ衛星どうしがたまたま重なりあうようなものなのかもしれない。

 スプートニクというのは、1950年代に旧ソ連が打ち上げた、世界初の人工衛星につけられた名前である。そして、現在は小学校の教師である「僕」の奇妙な女友達――小説家になるために、日夜自分の頭の中にあるイメージと格闘し、小説という形を与えようと努力しているすみれが、生まれてはじめて恋に落ちた年上の女性にひそかにつけた愛称でもある。女性でありながら、小説を書くということ以外にはおよそすべてのことに無頓着で、性欲や恋愛といったものとは無縁のまま、そのことをとくに深く考えることもなく生きてきた、ある意味でロマンチストで世間知らずのすみれの存在に、「僕」がたんなる女友達以上のものを感じていたのは確かだ。だからこそ、彼はすみれの物語を、そしてすみれが好きになったミュウと呼ばれている既婚女性の物語を語る。

『風の歌を聴け』や『ノルウェイの森』など、村上春樹の書く物語は、いつも読む者に妙な切なさ――あるいはむなしさと言ったほうが適切かもしれない――を感じさせる。特に何かを期待しているわけでもなく、またこの世界の、あるいは自分自身の未来の姿について思いをめぐらすこともない主人公「僕」の存在がその原因のひとつであることは間違いないのだが、そんな「僕」がほとんど唯一といってもいい、特別な意味を持つすみれに対して、異性として抱きたいと感じながらも、けっきょくそのことを打ち明けることもできず、また生まれてはじめて感じた強烈な恋愛感情というものに対して大きく揺れ動くすみれのために大して役に立ってあげることもできずにいる――そんな、人と人とがお互いに理解しあったり、気持ちを共有したいと思いながらも、考え方や価値観の違いから生じる微妙なズレやすれ違いを克服することができない、という事実こそが、私が彼の作品に感じるむなしさの正体なのではないだろうか。

 人がしょせん孤独な生き物であるということは、間違いのない事実である。それはどれだけ周囲に人がいても同じことだ。そして人は、その絶対的な孤独を保ったまま生きていけるほど心が強いわけではない。だからこそ、人は他人とのつながりを求めて努力する。あるときは、言葉という道具を使って。あるときは、自分のもつ五感の力を使って。

 言葉と五感は、他人とのつながりを持つ方法としては、ちょうど正反対の意味を帯びている。そしていみじくも、本書に登場する「僕」やすみれは、言葉を語ったり文字を書いたりする論理的な方法で、人とのコミュニケーションをとろうとしている。すみれは小さい頃から、何かを考えるためにはそのことを文章にせずにはいられなかった性格で、今もそれは小説という形でつづいている。一方の「僕」もまた、自分の考えを他人に伝えるために言葉を尽くすことに長けている。すみれはともかく、「僕」のほうは――これは村上春樹の物語に共通して言えることだが――けっこう簡単にガールフレンドを持ち、けっこう簡単に女性とステディな関係になることができるが、そこには不思議なほど生々しさが欠けている。すみれは本書の中でこう語る。「わたしには性欲というものがよく理解できないの」と。そしてあたり前のことだが、性欲は理解するものではない。

 そんなすみれがミュウという女性に恋をしているのだと確信したとき、彼女がそれまで培ってきた言葉という名のコミュニケーションは、いっさい役に立たなくなってしまう。ミュウに触れたい、ミュウを抱きたいと願うすみれの気持ちは、言葉とは正反対に位置するもので、すみれがミュウの仕事を手伝うようになってから小説が書けなくなってしまったのは、当然の帰結だと言える。想いが募れば募るほど、深く考えれば考えるほど、心と気持ちがバラバラになっていくのを感じながらもどうすることもできないすみれは、ついに自分の気持ちをミュウに打ち明ける決心をするが……。

 気のおけない友達と会って話をしているとき、恋人とその肌のぬくもりをたしかめあっているとき、その瞬間は、たしかに自分はひとりではない、と強く思う。だが、一度そこから離れてひとりになったとたん、つい先程まであれほど感じていた想いは急激にしぼみ、どうしようもない孤独感にさいなまれる。もう二度と会うこともない人々と自分とをつなぎとめるものは、お互いの心にある思い出だけ――しかもその思い出も、時間が経つにつれて風化し、いずれは記憶の奥底へと押しやられてしまう。そんな不条理にも似たテーマを追い求めつづける村上春樹の言葉による「語り」は、今もなお続いている。(1999.11.17)

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