【講談社】
『悪党が見た星』

二郎遊真著 

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 誰かが誰かに特別な思いを抱くというのは、何も恋愛感情だけの専売特許というわけではない。恩義に報いたいという気持ちもあれば、純粋な尊敬の念といったものはもちろんのこと、誰かを憎悪するといった負の感情も、結果的には相手を特別視しているからこそ生じる感情に他ならない。そして、誰かにそうした思いを抱かせるきっかけというのは、しばしば当人にとって意識にのぼることもないほど、瑣末な事柄にすぎなかったりするものだ。

 人はどこまでいっても自己中心的なものの考え方をする生き物であるし、どれだけ物事を客観視することを望んでも、おのれの主観からは逃れられないものだが、そのいっぽうで、自分以外の誰かに対する強い思いによって突き動かされていくところがあるのも事実である。だからこそ、人と人との関係というのは興味深いのだが、今回紹介する本書『悪党が見た星』を評するうえで、誰が誰にどのような思いをいだいているか、というのが重要なポイントであると同時に、ミステリーにおける謎解きという要素にも深く絡んでくることを、まずは挙げておく必要がある。

 そんなことはさせやしない。彼女を守るためなら、それこそ鬼にだってなってやる。――簡単なことだ。昔の自分に戻ればいい。不平等だからこそ感情に溢れたこの世界の空を、暴力という名の翼で縦横無尽に舞っていたあの頃に。

 本書の中心人物のひとりである清高文児は、一ヶ月ほど前に出所してきたばかりの極道幹部。若いころから暴力の世界を渡り歩いてきた生粋のヤクザであるが、そんな彼のヤクザとしてのキャリアは今、地に落ちつつあった。「アレスト」――再犯の可能性が高い凶悪犯などを対象に、脳のある器官にセンサーを埋めこむ手術を執行し、対象者が犯罪を行なっているかどうかを監視するという法制度であり、各種脳内物質の分泌パターンが犯罪行為を示す数値と一致したときに、すべての携帯電話に搭載が義務づけられている「アレスト・スイッチ」が押されると、センサーが高熱を発して脳を焼くという代物である。このセンサーのリアクションによって、元受刑者のいっさいの感情が失われたり、逆に凶悪犯罪を引き起こしたりといった報告があり、清高はその恐怖のために暴力を受けつけない体になってしまっていた。ヤクザが暴力にものを言わせられなくなること、それは極道としては木偶同然であり、最悪、その道から足を洗うしかない。それは清高にとって、文字どおり自分が自分でなくなることに等しいものでもある。

 そんなおり、清高は組長である北城宗春の命を受け、六千万円という大金を運ぶことになった。届ける相手は裏社会の商売人であり、清高の事務所ともつながりのある片岡浩文。だが、その金の使い道が誘拐された片岡の娘の身代金であること、そして片岡の自宅に急行した刑事たちがことごとく偽物であり、誘拐事件そのものが狂言であることを見抜いた彼は、一計を案じる。もしこの状況を利用してうまく立ち回れば、六千万円を横取りできるかもしれない――それは、「アレスト」のセンサーを違法に除去する手術の費用として、清高がなんとしても手に入れたい現金でもあった。だが、部下の新見を使って彼らのアジトを突き止めたところまではよかったが、肝心の六千万円はいつのまにか紙切れにすりかえられており、本物は煙のように消えてしまっていた……。

 警察に扮装してこのおおがかりな詐欺行為をしかけたのは、劇団スティングの劇団員。あくまで本番の予行演習にすぎないと彼らは主張するものの、現金が消えたという事実は変わらない。はたして、彼らのうちの誰が現金をすりかえた張本人なのか――清高自身はもちろんのこと、一人称の語り手が次々と入れ替わっていきながら物語が進行していく本書を読んでいくと、劇団員もそれぞれに過去の秘密や思惑といったものをかかえており、現金六千万円をめぐるちょっとしたコン・ゲームの様相を呈してくるのだが、アレスト恐怖症によって暴力という武器を封じられた清高が、やむをえず探偵役となって隠された真相を明らかにしていくという過程を踏んでいることもまた、その大きな要因であり、また本書の特長のひとつにもなっているのは間違いない。

 生粋のヤクザでありながら、小さな情報から新たな事実を発見したり、鋭い洞察力を発揮したりする清高の姿は、荒事を商売としているとは思えないギャップを感じさせるものであるが、当初の見た目とはまったく異なる側面をかかえているのは彼だけではない。警察という演技をしていた劇団員はもちろんのこと、当初は誘拐された娘の父親という非力な存在でしかなかった片岡が、じつは裏世界では名の知れたあくどい闇商人であったり、当初は男に媚びて利用する悪女のように見えた劇団員のひとり、遠野キズナがじつはある男性に対して一途な思いを寄せているとわかったりと、一連の事件の真相が見えてくるにともなって、登場人物たちの意想外な一面が立ち現われてくる。そういう意味では、登場人物の誰もがひとクセもふたクセもある者たちばかりで油断ならないのだが、それ以上に本書が見事なのは、そうした登場人物たちの秘密が今回の一連の事件と密接に絡みあうことで、言わばミステリーとしての要素を重層的に立ち上がらせ、読者の興味を持続させることに成功しているという点である。

 本書の中心にあるのが、消えた現金の行方という謎解きにあることは間違いないのだが、同時にその現金を狙う者たちが、どのような理由でそのような犯罪行為を決意したのか、ということもまた、本書を語るうえで欠かすことのできない要素となっている。とくに、その理由が利己的なものではなく、むしろ利他的なものであることが見えてきてからは、誰がその犯人だったとしても、どうしてもその人物を憎めないような状況に陥ってしまう。そんななか、あくまで自身に仕込まれた「アレスト」除去のために金を狙う清高は、一見すると唯一利己的な理由で動いているように思える――じっさい、自分が属する暴力団の金を持ち逃げしようとしているのだから、彼の行為は裏切りに他ならない――が、その一方で彼と組長との過去が明らかにされるにつれて、次第にその目的が別のベクトルへと向けられていくことに、読者も、そして清高自身も気づくことになる。

 先程私は、本書のことをコン・ゲームの一種としてとらえようとしたが、権謀術策のかぎりをつくし、人を裏切ったり裏切られたりしながら、最終的に誰が勝ちを拾うことになるのかという駆け引きの醍醐味がそのジャンルのキモであるとするなら、本書の読みどころはそうした点ではない。むしろ、誰かを裏切るということの背後にある人間の複雑な感情こそが、本書最大のテーマとしてとらえるべきであり、そういう意味で本書は、きわめて人間臭いドラマであると言うことができる。

 さまざまな人物の思いや過去を内包しながら、六千万円という現金の行方を追うミステリーは、誰が犯人であってもおかしくないと同時に、その犯人が判明するだけでは真の大団円とはならない要素を多くかかえてしまっている。それは、彼らのかかえる問題が、現金によって得られるものだけでは、あくまで表面をつくろうだけであり、本質的な解決にならないのと同じことだ。そんな物語に、はたしてどのような決着がつけられることになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2010.08.23)

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