【新潮社】
『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

岡田利規著 
第2回大江健三郎賞受賞作 



 今回紹介する本書『わたしたちに許された特別な時間の終わり』というタイトルは、あくまで単行本としてのタイトルであって、じっさいにそこに掲載されている作品は『三月の5日間』と『わたしの場所の複数』のふたつである。そして本書を読んでいくとすぐに気づくことのひとつとして、そこに書かれた文章のよどみなさというのがある。基本的に本書の文章には驚くほど改行が少ない。つまり登場人物の会話や周囲の様子、固有名詞もふくめた町並みや目につく物の形状といった情報が、ひとつながりの文章でつづられているのだが、書かれていく対象が次から次へと変化していくにもかかわらず、まるでその差異などもともと存在しないかのように、物語は進んでいくのだ。

 物語、などと述べたが、じっさいには物語というよりは、言葉が連なっていく、という表現のほうがふさわしい。そもそも本書に収められたふたつの作品に、物語らしいものや筋書きめいたものは存在しない。それゆえに、本書のあらすじや内容を紹介することにあまり大きな意味はないし、無理にあらすじをまとめたとしても、本書の本質をほとんどとらえることのできないまま終わってしまう可能性のほうが大きい。では本書にはいったい何が書かれているのか、ということになるのだが、それをある特定の言葉に言い換えるのは難しいし、本書はまさにそうした特定の言葉に言い換えることのできないものを表現するためにこそ書かれたものでもあるのだが、それでもあえて言い換えてみるなら、それはある種のディスコミュニケーション、言葉があり、その言葉を誰かに向けて発しているにもかかわらず、その言葉が相手に届いていない、そしてそれゆえに会話が会話として成立していないという孤独感である。

 特定の物語としての枠が存在しない本書には、それゆえにというべきなのか、その気になればいくらでも象徴めいたものを見出すことができる。たとえば、『三月の5日間』の冒頭には、六本木のライブハウスに向かう六人の若者の様子が書かれている。彼らは電車のなかにいるときからずっと大声で話し続けていて、そのたたみかけるような会話はライブハウスに着いてからもつづくのだが、誰がどんな内容のことを話しているのかということは、ほとんど書かれていない。彼らが酔っ払っているということもあるのだが、そもそも会話を成立させようという意志をもっているわけでもなく、それぞれが勝手に言いたいことをわめいているという表現がふさわしい。そしてじっさい、彼らの喋り声は相手とのコミュニケーションの道具としてではなく、ただの騒音と化しており、本書の書き手にすら放置されている状態となっている。そういう意味での「ディスコミュニケーション」が、本書のあちこちに見受けられる。

 言葉を発しているにもかかわらず、その言葉の受け手が存在しないまま、しかし言葉だけがよどみなく生み出されていくというのは、私たちの日々の生活のなかにおいてけっしてありえないことではないにもかかわらず、それが小説という形で目の前に提示されると、一種異様な雰囲気を読み手に与える。本書のもうひとつの作品『わたしの場所の複数』では、三十代のフリーター夫婦の妻のほうが、湿気の多いアパートの布団のうえで、アルバイトに行かなければならないのだがどうしてもそうする気になれないまま、寝転がって誰に届くでもない独白めいたことをつづけるというものであるが、その行き場のない言葉が、まるで現実世界を侵蝕していくかのように、その場にいないはずの夫の様子や、インターネットのブログでしか知らない、あるコールセンターの派遣社員の仕事の様子などを平然と語り出したりする。

 言葉というのは、情報を正しく伝えるための道具であり、だからこそ私たちは言葉を用いて相手とコミュニケーションをはかることができるわけだが、言葉がその本来の使われ方をされていないという状況が、本書のなかにはある。『三月の5日間』の若者は大声で話をしているが、彼らのなかに本当に何か伝えたいことがあるのかといえば、じつはそんなわけでもないし、おそらく彼らは自分の伝えたいことが何かということを、意識さえしていない。言葉はただ発するもの、自分が言いたいことをとりあえず言うために必要であって、それが相手に届いているかどうかは、じつはさほど重要視していないということかもしれない。相手からの一方通行で終わってしまう、という意味での「ディスコミュニケーション」 ――だからこそ、彼らが観に行った外国人の劇団パフォーマンスにおいて、観客側にマイクが設置され、お互いに言葉のやりとりをするという形式が示されたとき、逆に彼らは何も話すことができなくなってしまう。

 この一種気まずい感覚というか、語るべき言葉が見つからないという孤独感は、『わたしの場所の複数』においても同等のものだ。妻は今の貧乏で、金銭的にも不安定な生活に倦み疲れ、こんな黴だらけの部屋に住み続けることの不満を夫にぶつけるのだが、その言葉をそのままにしか受け取らない夫のほうは、じゃあ引っ越すかなどと応える。問題はもっと別の深いところにあり、しかもその問題は今すぐどうにかなるような問題ではないことは、お互いにわかっていて、しかしそれでも何かを伝えずにはいられない妻の気持ちが、異様な独白となって結実している。

 自分のなかの明確な何かが定まらないままに、しかし日々の生活をつづけていかなければならないという不安は、現代を生きる私たちの――個人が個人でありつづけることをある意味強要された世界を生きる私たちのかかえる問題のひとつであるが、その対極に位置するものとして、『三月の5日間』に登場するパフォーマンス集団が、おそらく主題のひとつとして演じたアメリカのイラクへの武力介入という事実がある。本書のなかでは、まさにブッシュ大統領が宣言した「タイムアウト」目前という時期であり、それは言うまでもなくイラクとの戦争が避けられないという状況なのだが、戦争とは、個人が「兵士」という無個性であることを強要される行為でもある。

 その外国人のパフォーマンス集団は、武力介入に明確な意見や主張をもっているわけでもないし、観客に自分たちの意見を押しつけるわけでも、スローガンを連呼するわけでもない。ただ、そのことをどう思うのかという疑問を、いかにも催し物であるかのように提示することよって、私たちのなかの定まっていない部分を揺り動かす。揺り動かされた私たちの心は、それゆえに、もはやそのことを自分とは無関係だと突き放すことができなくなる。アメリカのイラクへの武力介入に対して、個人の責任のもと、何らかの意見や主張をもたなければと思いながらも、しかし私たちのなかにそれを語るだけのものがほとんどない、ということに気づかされる。そうした意味での「ディスコミュニケーション」も、本書がもつテーマのひとつである。

 今になって私は、今があれから何日経ったのか、今の日付はいつなのか、そんなこと分からなくなってしまいたい、という気持ちでいた自分のことを、冷静に俯瞰できる。――(中略)――私たちは窓も時計もない、テレビも見ずに済む、子供の夢のような部屋にいたのだ。(『三月の5日間』より)

 真の意味でコミュニケーションをはかるためには、個人がまぎれもない個人であるということ、自分の思うこと、考えていることが明確であることが前提であるとするなら、私たちはいったいどれだけ本当の「コミュニケーション」を、誰かとはかってきたのだろうか、とふと思う。そして本書のなかにつづられた、独白めいた言葉の果てに、どのような世界が広がっているのかに、ふと思いを馳せてみる。それはあるいは、今の私たちに対する、何らかの訴えかけとなっているのかもしれないのだ。(2010.04.29)

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